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随 筆
   燕                 小 村 美 穂

                        島根日日新聞 平成14年7月10日掲載

 チッチッチッ、ギーギー。
 燕が帰ってきた。今年の帰巣は、ことのほか嬉しい。去年はとうとう雛を見る
ことがなかったからだ。
 玄関の蛍光灯の上に巣をかけ、毎年少しずつ燕が補修を加えては巣立っていた。
去年は、蛍光灯を変えたのが悪かったのか寄り付かなかった。天井との空間が狭いためではないかと、吊り下げ金具を取り替えて少し下げた。そうして待っていたのだが、遂に実現しなかった。
 今年は、指し示したかのように、真っ直ぐ我が家へ入ってきて、巣作りを始めた。神秘的としか言いようがない。なぜ私の家に、しかも多分同じはずの燕が帰ってくるのだろう。この家は安全で、この家の人間は自分たちに対する愛情があるらしいと、本能的に察知してくれたのだろうか。そうと思えば、燕に感謝したくなる。独り暮らしの私に、慰めと喜びを告げに、越冬地である台湾やフィリピ
ンなどから数千キロもの海上を飛び、我が家へ辿り着いたのだ。愛しさが込み上
げる。

 四月六日、巣作りを始めた。つがいの燕は、常に協同作業で泥と枯草を運び、たちまち出来上がる。時には、チッチッと相談でもしているかのようである。また、家中を探検して回り、辺り構わず糞を落とす。あげくに出口が分からなくなったのか、素通しのガラスに幾度もぶつかるのを見ると痛々しい。
 五月五日、孵化したらしい。大豆玉くらいの卵の殻が二つに割れて落ちていた。
 二、三日もすると雛の声が聞こえるようになり、餌を求める子燕の大きな口が並ぶ。一斉に叫ぶ声が波打つ。
 そのうちに、巣からはみ出して、羽ばたく練習が始まった。中でつぶされている子がいるのではと思うくらい元気だ。糞の始末も忙しくなる。白い粉のようなものまで降ってくる。
 その始末には手間がかかる。だが、燕たちの賑やかさを見る時間が、独り暮らしの一日の中で最も楽しいそれだから苦にならない。
 五月二十七日の朝、二羽を残して三羽が飛び出して行った。そのうち、親鳥にせかされて残りも飛んだのか、いつしか巣は空家の静けさの様相となった。急にわびしさが漂う。
 やはり親鳥は、平等に餌を与え、一斉に巣立ちができるように育てていたのだと感心した。
 とうとう、夜になってもそれきりで、帰ってこなかった。どこにどうしているのか、烏に襲われているのではと心配した。
 それから四、五日目であったか、五、六羽の燕が家の周りを旋回し、そのまま去っていったのを見た。お礼の飛行であったかもしれない。
 六月六日の朝のことだった。
 玄関を開けると、待っていたかのように、二羽の燕がさっと入ってきた。足繁く出入りしていたかと思うと、何と以前の巣の反対側に巣作りを始めたのである。燕の繁殖は二回だということだから、同じ燕に違いない。なにごともなかったようにその巣の中で、じっと座って卵を温め始めた。
 振り返ると、青空がどこまでも広がっていた。


講師評
 冒頭の「チッチッチッ、ギーギー。」は、何が起こるのだろうと思わせる。燕が来たのだ。鳴き声を最初に読ませる、というのも面白い。
 書かれているように、毎年のように遠い東南アジアから、同じ家を目指してやってくる燕の生態は不思議である。一年の空白をおいて飛んで来た、というのもロマンがある。
 やって来た燕は、いつかは去って行く。最後の一行が筆者のその思いを実に見事に表している。余韻をもたせているのだ。その後に、「燕は、いつかはこの青空へ飛び去って行く」と書きたいところだが、そういう陳腐な文を書かない方がいい。
 タイトルは、もともと「燕の帰巣」であった。だが、書かれている内容は、そのこともだが、筆者の家に来た燕の様子である。添削の段階でいろいろ思案したが、ただの一文字「燕」でよいのではと思った。ほかによい題名はないか。どうであろう。
 短い文章だが、愛情溢れる筆者の気持ちがよく表現された作品になった。