TOPページにもどる   ウエブ青藍トップにもどる

   一町地蔵
                       
    三島操子                   
                                                                                   平成20年10月30日・11月13日及び20日付け 島根日日新聞掲載

十三夜の月が、だいぶ西に動いていったらしい。
 明かり障子に、ぼんやりとした梢の姿を映した月明かりが、佐和の寝床まで忍び込んで来た。
「佐和……。お月さんを見たらいけないよ。かぐや姫のように、お月さんのところに行きたくなるからな」
 祖母が、そう言いながら佐和を膝の上に乗せ、囁くようにしてくれた幾つかの昔話を思い出していた。

 夜眠れないと思い始めて、一週間。
 頭の中心の重さに我慢できなくなり、近くの診療所で薬を調剤して貰った。
 今夜こそは眠れますように、と、祈るような気持ちで喉に流しこんだのに、どうしたことかいっこうに眠りはやって来ない。なのに、かぶりつくような痛みと共に動悸が体中に爪を立て、先にやって来た。
 佐和は、押し潰すように、枕を胸に強く抱き締めてみた。
 突然、診療所で一緒になったお婆さん同士の、ひそひそとした話が聞こえてきた。
「一町地蔵さんはなんでも聞いてくれますけんね。有り難いことです。谷の風道にでんと座り、やってくる忌みを全部かぶって頂いていますけん。薬で直らんことは地蔵さんに相談しますわ。知らない間に良い具合にしてもらえますけん」
 一町地蔵さん……。
 ふーと、体中の息を吐き出した時、気持ちは決まった。
 耳たぶにぶら下がっているお婆さん達の声を剥ぎ取り、身支度を整えて外に出た。
 寝静まった風景が広がる。
 周りの家々は月明かりの中で、黒いシルエットになって収まっている。
 後を付いてくる者がいるような気がして振り返る。誰もいない。
 自分の足音が山に木霊しているんだと自分に言い聞かせ、下腹を踏ん張った。
 ぞく……ぞく。
 思わず、襟元を両手で握りしめた。
 佐和は一呼吸すると、つま先に力を入れた。
 岩にぶつかる川音が、足を早めさせる。
 一間幅の鉄色の道が、誘うようにどこまでも伸びている。
 胸を打つ動悸の痛さに我慢できなくなって顔を上げると、冴え冴えとした月と目があった。
 一間ほど先。
 道の脇にぼんやりとした白い物が見える。
 近づいてよくみると、花立から溢れるように花が挿してある。
 小菊のように見えた。
 その脇に、ほんの三十センチばかりの暗いかたまりが座っている。
 ああ、これだ。これが一町地蔵か! 
 その時――。ひやりとした風に体を包まれた。
 腰を伸ばし辺りを見回した佐和は、孤独感でこめかみ辺りが痛くなり、しゃがみ込んでしまった。
 西と東、両方の山と山の谷間から降りてくる風が体をつつく。その風に急かされて、地蔵さんに手を合わせた。
「なぜ、私は一人ぼっちになったのですか……。これからどうすれば良いのですか――」
 折り曲げている膝のしびれで、我に返った。
 ほんの、ひと時だと思ったのに、見上げた月は、連なる山峰の縁あたりまで動いていた。
 家に踵を返そうと踏ん張ると、道のずーっと先に薄ぼんやりと何かが見える。
 気が付くと、そこを目指して歩いていた。
 一升星を独り占めしながら小走りになる。
 あった。ここにも地蔵さん。誰が供えたか小菊の枝。
 辺りを見回わすと、黒々とした谷が重なっている。谷風の通り道!か。ここにも一町地蔵さんが居てくれたのだ。指先に力を入れ手を合わせる。
 初秋の谷風が首筋を撫でて行く。
 ゆっくりと腰をあげ、道の先に眼をこらす。
 あれは! 
 走るように行ってみれば、また地蔵さん。
 祈る鼻先を小菊の香を乗せた風がかすめて行った。
 アスファルト道が、ねずみ色に見えるようになって来た。
 気が付けばりんどう色の風景の中に、ひとり立っていた。

 ざわざわ。
 川の音がだんだん大きくなってくる。風も吹いている。大草をかき分けるような音が聞こえる。ここはどこだろう! 
 水の底から流れを見ているような、不思議な感覚だ。

「佐和さん気が付いた」
 エッ……。
 隣のお婆さんの顔がある。親戚の顔が覗き込んでいる。
「びっくりしたがね。一日中、カーテンが開かないものだから、悪いと思ったけど入って見たら。まあー。仏間に布団が敷かれて、その中に佐和さんがすやすやと寝てて――」
 佐和は寝間着の姿も忘れ、布団の上にかしこまってしまった。
「あんた、今日で三日も寝続けて居るんだよ」
 叔母の棘のある顔が大きい。
「診療所の先生に診察に来てもらったんだけどね……。それにも気が付かずに寝て居るんだから呆れるよ――」
「三日も?」
「一ヶ月の間に、ご主人と姑さんを送れば気疲れも溜まるから、ゆっくり寝かせてあげなさい、と先生に言われてね。病気ではないと言われても心配で……。こうして替わり番に様子を見に来てたよ。近所の皆さんにも大変な心配かけてしまって……」
 話しながら、叔母は大きな溜息を落とす。
 信じて貰えないかも知れないと思いつつ、佐和はポツリ……ポツリと、自分がしていたことを話し始めた――。
「……本当に! 本当に、地蔵さんが、そんなに沢山いらしゃったかね」
 一番先に口を切ったのは、隣のお婆さんだ。
「一町地蔵さんは、小字の境にしかおられないはずだが」
 取り囲む戸惑いの真ん中で、佐和は、金縛りを解かれたように軽くなった体に両腕を回していた。
「分かった。佐和さんの苦労を地蔵さんは承知してくれたんだよ。地蔵さんは、あんたの苦労を全部背負ってくれたということだわね。それに十三夜の月は、昔から十三夜様と言って、拝むと願いが叶うという言い伝えがあるんだよ。わしもいろんな頼み事を、あちらこちらにばらまいて、今日までこうして生きてきたんだよ」
 並んだ頭が波打つように揺れている。
 お婆さんは、ゆっくりと背中を撫でてくれる。大きな手だ。体の芯まで温かさが広がっていく。

 佐和は家中を開け放し、寝ていた布団を秋真昼の中に放り出したくなった。

◇作品を読んで

 疲れると、よけいに眠れなくなるという経験は誰にでもあるが、多分、作者はそんな時があったかもしれない。眠れぬままに、いや、眠っているのか起きているのか分からないような時間の中で、創り上げられたのがこの話ではないかと思わせられた。
 原文は改行が少なかったので、あえて一文を独立させるようにしてみた。こういう夢の中にいるような内容は、短い文で改行を重ねると効果が出るような気がするのだが、どうだろうか。
 使われた語句の幾つかは、選ばれたそれである。最後の段落にある「秋真昼」という言葉は、眠りから醒めた情感につながっている。
 なお、この作品で、島根日日新聞文学欄の「青藍」は300回目となった。よい作品で節目を飾ることができたことを作者共々、喜びたい。