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     私、見たんです
                       
    高野 八朗                   
                                                                                   平成20年12月11日付け島根日日新聞掲載

 飛び立ったコハクチョウが鳴いた。
 奈緒が、その声に誘われたのか「私、見たんです」と大声で言い、怒った顔を晄平に見せた。
 中海に面した米子水鳥公園の二階にある観察ホールの巨大なガラス窓に、伯耆富士とも呼ばれる白い大山が優雅に広がっている。
「何を見たって?」
 奈緒は高校を出てから直ぐに米子市の書店に勤め、もう二十二年になる。晄平が奈緒に初めて出会ったのは、十年前だった。晄平は、四十歳のときに第一回山陰新人文学賞で最優秀賞を獲得した後、鳥取県庁に勤めながら二足の草鞋で地方の作家として書き続けている。
 文学賞を主宰する鳥取日報社が再優秀賞の原稿を本にして出版し、サイン会をしてくれたときの担当店員が奈緒だった。
 妻を交通事故で亡くした晄平が奈緒のアパートで、週に二度ばかり過ごすようになったのは、そのときからだ。歳は離れているが、そろそろ一緒に暮らしてもいいと思っている。
「ええ……」
 奈緒が言い淀んだ。晄平は目で促した。
「晄平さんが書いた最新刊の『中海に死す』が平積みになってて、その横に積んである磯田……さんの本が」
 磯田というのは、つい最近、『青空の果て』という恋愛小説を自費出版した、隣の松江市に住む若い女である。新聞に紹介されて以来、どんな女か興味があった。一度、会ってみたいと思っていた。
「その本がどうしたの?」
「『青空の果て』って、私、好きじゃないんだけど、店長さんが、晄平さんの隣りに置けって言うんです」
 コハクチョウの苛立つような鳴き声が、また聞こえた。残りの数羽が飛び立ったのだ。
「磯田さんの本が、晄平さんの上に載せてあったんです」
「ということは、『青空の果て』が二列に並んで積んであるように見えるってことかい?」
 奈緒は、顎を引いた顔を頷くように小さく揺らした。
「判型は晄平さんと磯田さんのが同じB6判だから、そう見えるの。厚さも殆ど一緒だし」
「そりゃあ、誰かが手にした磯田さんの本を間違って俺のところに置いたんだろうよ。そんなに悪いことをするとは思えない」
「そうじゃないと思う。磯田さんの味方しないでよ」
 奈緒が激しい口調になった。
「どうして? 偶然だよ」
「だって、三冊もよ」
 晄平の本は新聞に載った書評にも褒めて書かれてあり、思いがけず売れゆきがよかった。再版がかかりそうだと思っている。奈緒が手作りのポップも立てていることもあるだろう。奈緒の言いたいのは、『青空の果て』が大量に平積みになっているということは売れていように見えるということだ。だが、よほどの流行作家でない限り、平積みで二列というのはあり得ない。確かに、重ねてしまえば、晄平の本が書店にはないというように見える。だが、一冊ならともかく、三冊も載せるというのは、あきらかに意図的だ。奈緒は、幼稚な嫌がらせだと言う。
「お客さんには分からないように、防犯カメラが取り付けてあるのよ。万引き防止のためにね」
「見たのか?」 
「そうなの。以前にも同じことが何度かあって、晄平さんの言うように偶然そうなったんだろうって思ってた。けど、必ず土曜とか日曜に、やってんのが写ってる」
「それが、磯田?」
「私、見たんです。髪が長いから分かる。ちょっとぼやけた画面だけど、間違いないわ」
「どうするんだ?」
「犯罪とまではいかないから、どうしようもないけど、その人が来たら店内パトロールの私服警備の人に頼んで、現場を押さえて注意してもらうつもりよ。あの女……許せない」
 奈緒の目がきらりと光り、晄平を見詰めていた。
 コォーと鳴いて舞い降りてきたコハクチョウが、水面に大きな波を立てた。

◇作品を読んで

 本を出版したことのある作者に聞いてみた。実際にあった話だと言う。重ねられた冊数も確かめたことなのだそうだ。もちろん、創作として書かれているから、男が女になったり、舞台が別のところになったりという多少の脚色はあるのだろう。作者はよほど腹に据えかねているようだが、それはともかく、その事実をこういう形で作品にするというのは面白い。
 言いたいことがあれば形を変え、小説や童話にすることが出来るというのは文章の効用の一つだとも思える。題材はどこにでも転がっているという例であり、それをどう料理するかというのは、作者の腕である。