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     生への終着点 
                       
       平里 葉月                      
                                                                                   平成21年2月5日・12日付け島根日日新聞掲載

 十一月初めに父の一周忌を迎えた。既に一年祭を済ませていたので、命日に行事はなかったが、墓参りを済ませてから、母がひとりで住んでいる松江の実家へ行き、お茶を飲みながら父を思う時間を過ごした。
 兄や弟は、私と同じ行動はしなかった。兄は大阪に住んでおり、仕事の都合で命日には帰省できないから、早めに一年祭を催したのである。実家の近くに住んでいる弟は、前日に母と墓掃除に行っている。その日そのとき≠ノこだわることもないだろう。生きて生活している者の都合で行動しても、父は恨むまい。

 今年は紅葉が遅かった。一年前、道路の並木は、もっと色づいていた。病院へ着くまで父が亡くなったのを知らずにいたので、バスの中から、暢気に紅葉を愛でていた。いよいよ正念場かと覚悟もしたが、いつものごとく持ち直すだろうという期待が大きかった。
 病院へ着いて、父が既に亡くなっていることを知らされても、「来るときが来た」と思っても、涙はこみ上げて来なかった。
 通夜も葬儀も、私たち一家は誰も泣かなかった。火葬のとき、叔母がひとりだけ号泣していた。一番の身内の者たちが泣かないのだから、おかしな光景である。 
 まったく湿らない私たち一家は、冷たいのだろうか。たぶん、叔母と私たちは感覚が違うのだろう。
 命は永遠ではない。私たち一家は、『死』を『生』の終着点としてとらえ、人の『生』は『死』をもって完了すると考えている。いつか尽きるものなら、やたら生き延びることを望まない。悔いが残らない死に様であれば、それで充分なのだ。
 父は社会生活から引退し、老後を楽しんでいるときに発病した。もともと母は、父を中心とした生活を送っていた。だから、父の病気が徐々に進み、寝たきりになり話ができなくなっても、介護パニックを起こさなかった。タイミングよく介護保険制度が整い、充分に活用できたおかげもある。兄弟や私はそんな母を見守り、ほんの少し助けてきた。
 亡くなる一年前には既に医者すら諦めていたし、何か月もの間、苦しそうな呼吸をしていた。「できるだけ苦しませないで逝かせたい」というのが、周りの者の願いだった。二、三ヶ月長く生き延びようが、死のうが問題ではない。延命措置もとらなかった。「やっと、あの世への壁を乗り越えられてよかったね」の気分なのである。
 心残りはない。
 亡くなる一週間くらい前からは、痰がからまなくなり、呼吸が穏やかになっていた。楽そうになった父を見て喜びながらも、今さら回復するはずがないのだから、「痰さえも出なくなったのかしら」などと冗談を言っていた。どうやら、そうらしい。亡くなる前には痰も出なくなると、あとで友人が教えてくれた。
 父は、傍にいた病院のスタッフさえ気がつかないうちに息を引き取った。
 病院からの電話連絡では、「様子がおかしい」としか言ってくれなかった。私より早く病院に着いた母と弟嫁は、父を見ても、亡くなっているのがわからなかったらしい。「今から医師が説明をしますから」と言って病院スタッフが去ったあと、
「静かですねぇ」
「息をしてないみたいねぇ」
 母が、そう言って父の鼻の前に手をかざし、
「あら、ほんとに息をしてないわ」
「そういえば、胸が動いてませんねぇ」
 などと、漫才のような会話をしたらしい。

 父が亡くなって二日後に、義兄が逝った。父より二十歳近くも若い、六十五歳だった。もう孫がいるし、社会生活も一通り過ごしてはいるが、彼の死は悲しい。病気がわかって入院してからは、あっという間に人生を突然断ち切られた感じがする。逝く身としては、父のような苦しみは短かっただろうが、葬る身としては、辛い別れである。覚悟ができていない。完結した『生』とは言い難い。人間誰しも『死』は、避けられない。『死』に至る病に取り付かれた者にとって、死ぬ形がいかに大切かと思う。
 父は亡くなった時点で無に帰している。
『位牌』や『霊爾』をただの札とは言わないが、生きていた人の代わりとして拝む気持ちにはなれない。札は父ではない。写真についても同様である。明治のころは、写真を撮ると魂が吸い取られるなどと言う人が多くいたそうであるが、今は誰もそんなこと信じない。なのに、みな、故人の写真を拝む。写真は単なる紙である。踏みつけにしようという気はないが、拝む気にも語りかける気にもなれない。実家には神棚があり、父が祀られている。行けば、型どおりの挨拶をするが、心からではない。そこに父はいない。弟は実家によく出入りしているが、常日頃は、まったく見向きもしない。
 墓には拝む気がある。墓標の下に父がいるからだ。骨になっても、いつか土になっても、父という人間の名残りが存在する。私なりの唯物主義なのだ。
 葬儀の後始末をしながら、兄が言った。
「われわれは、無神論者だねぇ」
 死にまつわる行事は、世間に向けてしなければならないからするのであって、心からやりたいのではない。
 初降霊祭は、早めの一年祭と兼ねて行った。我が家の面倒を見てくれている神主さんが、形式より心の持ち方だとアドバイスしてくれた。
 提灯を灯したからといって霊が帰ってくるわけではない。帰ってくると思う、生き残った者の気持ちだろう。霊を信じてはいない我々には、提灯は無用なのだ。
 夫の親が亡くなったとき提灯を贈った私は、自分の親にも同じことをしたかった。弟と二人で贈るつもりだったのだが、喪主である兄が「いらない」と言う。弟もあまり乗り気ではなかった。いらないと言うものを、押し付けることもあるまい。だが、初めはいらないと言っていた母が、欲しいと言い出した。兄が何度説得しても、欲しいと言って聴かない。
「叔父さんたちの手前、無かったらおかしいわ」
「今、一対あるのだから、それでいいでしょ」
「あれは、お祖母ちゃんのために叔父さんたちが下さったのよ。新しいのが無かったら、変に思われるわ」
 母の言うことにも一理ある。
「部屋が狭くなるだけだからもういらないでしょ。叔父さんたちがどう思おうとかまわないじゃないか」
 そのときは納得しても、しばらくすると提灯≠話題に出してくる。結局、「お母さんの満足のため」に弟と二人で提灯を贈った。
 そういえば私たち一家は常識離れしている。弟が結婚したとき、お祝いにテレビを欲しがった。彼はテレビにあまり興味がないので驚いた。テレビがないと格好がつかないから欲しい、だからテレビの形をした箱だけでいいのだそうだ。結局、きちんと映るテレビを贈った。そのテレビが壊れたとき、しばらく買い換えなかったらしい。

 週に一度の割合で実家へ行って、父の遺品の始末を手伝っている。両親だけが暮していた家は、父が居なくなった今、父の物は不用品である。母がまだ生きているのだから、全てを始末しようとは思わない。だが処分してかまわない物がいっぱいある。
「貴方が死ねば家一軒がゴミ」と、誰かが言っていた。私も言う。「物がなくなれば、それだけ家が広くなる」と。友人から、「あんまり強制しないようにね」と助言を受けているので、母の様子を見ながら行動している。
 春に衣類の始末をした。五年以上も寝たきりだったし、それ以前から身体が不自由だったので、背広や普通の服は、かなり前から着ていない。思い切り良く処分できた。
 秋には、写真の整理をした。両親の若い頃のものや、私たち兄弟の幼いころの写真を眺めながら、母と思い出に浸るので、なかなか片付かない。しかし、そのひとときが有意義なのだろう。片付けを私に任せてくれた兄弟に感謝している。
 喪主である兄は、少ない財産の始末のために、大阪から何度も帰省した。もともと、やることがゆっくりな兄である。法律に何の知識もない素人が、仕事の合間に、ひとつひとつのことについて調べながらやるので、なかなか終わらない。一周忌前にやっと完了した。よその家に比べて、始末の仕方が遅かったのか早かったのかわからない。ただ、兄が松江へ来ることによって、母と顔をあわせることができた。近くに住んでいる弟や私が、頻繁に出入りしている。それにより、母が悲しんではいられない状態にしたのは確かだ。
 私たち兄弟は、それぞれが、できることをできるときにする、と了解している。無理強いはしない。兄嫁や、弟嫁、夫は実の親子ではないのだから、実家に関わることは、してくれなくて当たり前で、してくれたら感謝する。母は少々不満のようだが、兄弟では納得している。私に関しては、他家へ嫁した者だから、兄嫁たちより出しゃばってはいけないと気をつけている。ところが、兄夫婦は遠くに住んでいるし、弟嫁は外出が難しい身である。私が実家に出入りするのに気遣いはいらない。
 来年は父の三年祭、一年を置いて次は五年祭がある。このくらいまでは、母を中心に祭事を行いたい。母の母親は来年百二歳になるが、足腰は少し弱ったものの、頭はしっかりしている。その娘である母は、八十歳を過ぎての独身を大いに謳歌すればいい。きちんと『生』を完結させて欲しい。

◇作品を読んで

 この作品が最初に書かれたのは、昨年の十一月であった。推敲を重ねるうちに、「その後、書いているうちに横道にそれ、何を書きたいのか分からなくなりがちだった」と作者は振り返る。
 作者には二年前の秋の作品に、『まだ千の風ではない』というのがあり、一年前の十一月に書かれた『千の風になった父と義兄』は、「二〇〇七年十一月初め、父と義兄が相次いで亡くなった。父の死はあまり悲しくない。」という冒頭で始まっている。
 この二つの作品を踏まえた上でのものが、『生の終着点』ということになり、いろいろな思いが、まとめを難しくしたのではないだろうか。いずれにしても、生とは何か、死とは何かを二年間、問い続けられた結果の作品である。