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     幸せだったの? 
                       
       鶴 見  優                      
                                                                                   平成21年3月12日付け島根日日新聞掲載

 幸せとはあるものではなく、感じるものである。――四十数年前、ナルミは中学の卒業式で校長が式辞で述べた一節を、今も覚えていて、桜の咲く頃になると思い出す。
 近所に元気なおばあちゃんがいる。七十三歳だ。天気の良い日、外に出ると彼女の大きな話し声が聞こえてくる。賑やかにお喋りすることが大好きなので、男女を問わずよくお客さんが訪れるようだ。彼女の豪傑笑いも聞こえてくる。
「何があんなに楽しいのだろうねえ……」と、評判になっているくらいだ。彼女には、中学生と高校生になったお孫さんがいる。道路をはさんで始まる井戸端会議では、八十パーセントが孫自慢である。ひとしきり雑談が終わると、「幸せだわねえ」が口癖だ。
 もちろん、それには異論のあるはずもなく否定もしないが、ナルミは自分が幸せ≠ニ、あまり口に出して言わないことに気づいていた。しかし、最近になってナルミは、幸せ≠ニいう言葉を重く受けとめ過ぎていたような気がしている。
 日々の暮らしの中で、小さな事柄や喜びにも感動する心の軟らかさを失わず、「嬉しい―ッ」「楽しいーッ」「感激―ッ」「幸せーッ」などと思う者が「勝ちーッ」という気がしてきた。
 実際、年代とともに幸せのハードルは低くなっている。高齢者であっても、元気で自立した生活が出来ていればとっても、幸せなこと≠ネのではないかというふうに。
 たとえ現実離れはしていても、前向きな思いを持つことや、良いイメージを心に描くことは脳の刺激になり、快感ホルモンの分泌を促進して免疫力を高めるらしいのだ。その結果、健康や若さを保つことになると、健康関係の本で読んだことがある。
「し、あ、わ、せ」と、しっかり自分の心に刻み付け、脳に伝えることが幸せになるコツだともいえそうだ。極端にいえば、自分の脳に錯覚させることだ。
 ナルミが「幸せだった?」と、どうしても確かめたい相手がいる。昨年の十二月、急逝した飼い犬のコン≠ナある。
 犬を連れて散歩でもすれば運動不足解消にもなると思い、保健所から貰いうけた雑種であったが、人間ならば五十歳という短い生涯であった。
 ナルミの家族となって、さまざまな幸せをもたらしてくれたが、一体コンはどう思っていたのか、ひどく気になっている。亡くなる前日、あんなに大好きな散歩に誘っても行かなかった。
「コン、どうしたの? 具合が悪いの? じゃあ、今日は休んどくだわねえ」
 目をしっかり見開き、ナルミを見つめた、あの時のコンの表情は、初めて見る珍しい顔であった。「一体どうしたの? そんな顔して……」と、不審に思ったものの、さほど苦しそうにも、悲しそうにも見えなかったのである。
 寒くなり始めた時期でもあり、更に布団を一枚作って掛けてやり、いつもの習い事に出掛けてしまった。思えばあの時、コンの体調は相当悪かったのだ。赤ん坊ならば泣き叫ぶところだったに違いないのに、とても静かな佇まいであった。
 翌日、「伝染病に罹っていて、手遅れです」と、かかりつけの獣医に言われた。
「エーッ、そんなあーッ」
 そう簡単に言われても、俄かには受け容れ難く、まさか亡くなるなどとは思えなかった。
 別名コロリ病≠ニもいうくらい死亡率の高い伝染病だと、獣医は落ち着き払って説明してくれた。
「なんて、ひどいことを! なぜ、あの時すぐ医者に連れて行かなかったのか。とり返しのつかない悪いことしてしまった……」
 ナルミは自分を責めて泣き続けた。涙は温泉のように熱く涌き出て、枯れることはなかった。何日も何日も目頭は涙で溢れ、胸が潰れる思いに気持の治まることはなかった。
 居ても立ってもいられず、夕暮れ時になると帽子を目深にかぶり、コンと歩いた散歩コースを謝りながらしゃくりあげて泣き、まるで夢遊病者のように巡り歩いた。
 気がつくと、すっかり泣き顔が板についてしまっていた。これまでこんなに後悔して泣いたり、悲しい思いをしたことはなかった。
 コンの死は家族にも大きな衝撃を与え、深い悲しみをそれぞれに刻み込んだ。改めて大切なものは何かを教えられたように思う。
 そんなある日、テレビにある映像が映し出されていた。
 瀕死の小鹿を救った獣医が、その翌日、元気になった小鹿を森に戻そうとしていた。既に親鹿は察知していたらしく、姿を見せていた。小鹿は親鹿に向かって一目散に駈けていった。二頭の鹿は森の中に入っていくかと思いきや、親鹿と小鹿は横にきちんと並び、キオツケ≠フ姿勢で目をしっかり見開き、身じろぎもせず立ちすくんだまま、ジーッといつまでもいつまでも獣医の方角を見つめていた。まるで、「小鹿の命を救ってくれて、ア、リ、ガ、ト、ウ」と言っているかのように。
「アッそうだッ。あの顔は、あの時のコンそっくりだッ」 
 愕然とした。死を予感していたコンは、感謝の気持から、初めて見るあんな表情をしたのだろうか。そう思ってはみたものの、それはそれで愛おしさが込み上げてきて、益々自責の念に駆られて泣けた。
「ごめんね、苦しかっただろうに、助けてあげられなくて許してね。この家に貰われてきて、本当に幸せだったの?」
 最期に聞いてみたかった。返事は怖いのだが。

◇作品を読んで

 近所に、幸せなおばあちゃんがいる。「幸せだねえ」と、いつも言う。作者は「幸せ」とは何かと考え、逝ってしまった飼い犬のコンのことに思いを巡らす。何十年も一緒に暮らしたコンは、家族同様だった。ある日、テレビで鹿のエピソードを観た。それはコンの思い出に重なり、コンに「幸せだったか」と聞いてみたいという言葉で作品は締めくくられている。
 読者は、そうだろうなと共感し、再び、冒頭に書かれた卒業式の校長の言葉に戻るのではないだろうか。
 原文はもう少し長かった。紙面の都合ということもあるが、読み手に分かりにくいところは削った。それでも前半がやや長い気もしないではないが、コンへの思いがよく伝わる。