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    真紅のアラカン 
                       
       高木 さやか                                                                                                          平成21年4月23日付け島根日日新聞掲載

 立春も過ぎたある日、娘夫婦が「一畑薬師へ厄除けにいこう」と突然誘ってくれた。一週間後、三才離れた妹が、熨斗紙に還暦祝≠ニ書いた品を持ってきた。
「赤い頭巾と、ちゃんちゃんこが通り相場だが、今時は流行らないから、これにした」
 胸弾ませて袋から取り出した品物を見た瞬間、「ありがとう」の言葉が飛んだ。真紅のブラジャーに、所狭しとフリフリが付いている。下穿きもこれまたレースをふんだんにあしらった、眼がクラクラしそうなブラジャーと対の下着セット。
「どう、気に入ったでしょう? これだけ鮮やかな赤なら、ご利益も十分」
「そうだね、日本製だから値段も張ったでしょう。素敵な厄除けありがとう」
 私がやっとの思いで沸かしたコーヒーを、妹はでかしたという満足そうな表情で美味そうにすすっていた。
 その夜、お風呂から上がり暖房を思い切りつけ、やおら妹の心のこもったセットを身にあてがった。鏡の前に立ち、まず胸を観賞。フリフリを鋏で幾分カットすれば、まあまあ納得できそうだ。次なる物が相当手強い気がして、誰もいないのに目を閉じ穿いてみた。
 恐ろしい予感を振り払い、ヨッシャとむりやり心を奮い立たせ、気合と同時に目を開けて鏡をシカと見た。観察に耐え、これを下着の仲間に加えるには、相当の度胸が不可欠だ。今時の下着はずり落ちはしないが、何となく中途半端でしっくりと受け付けない。すっぽりと臍まではまる、安定感のあるのが好みだ。妹の好意を何とかものにしたい。
 くたびれるほどアイディアを考えた結果、この上にもう一枚穿くことで決着を導きだした。
 大汗を垂らしながらプレゼントに合格点が付けられ、ホッと下着のセットをなで下ろし、満足できた。
 三日後、娘が「縁起物だから愛用してね」と、小箱をくれた。「ありがとう」と、にっこり笑顔を作ってはみたが、三日前の夜の思いが頭に駆け上がった。
 娘が出かけた隙に、「どうかまともな品でありますように」と、一畑薬師様のお守りにお願いし、いざ拝見と勢いよく箱を開けた。ビニールに包まった代物は、又も真紅である。広げて見ると、LLサイズ記号が付いたニットの腹巻で、下腹が当たる箇所がゴム編みだ。補正兼務を考慮した実用的なプレゼントに安心したが、胸、腹、お尻とフリフリのゴム編みとレース。三つ揃えを着た模様を、目を閉じて焦り気味に想像したが、やはり滑稽に思えた。ここまで来たならいっそ頭から足先まで統一したが、王道だろうと決心を固めた。
 翌日、薬のスーパーへ行き、髪が一番明るく赤茶色に染め上がる品を買い求めた。続いて大型スーパー店のTシャツ売り場に赴き、五百八十円均一ワゴンの中をかき混ぜた努力の甲斐あり、探し求めた素晴しい真紅のシャツを二枚ゲットでき、ヤッターマン。
 お隣さんの靴下コーナーで、お気に入りの赤い五本指の靴下も二足六百九十八円でゲット。その二つお隣さんで、クルクルハンガーに吊り下げてある赤色のトレーニングパンツを、八百八十円でゲット。
 思いを遂げ、車のCDから流れる大好きな、ド演歌を宣伝カーの如く鳴らせつつ我が家に到着。
 全部を揃え、客間で所狭しと広げてくまなく視察した結論は、真紅、真紅と唱えながら求めたものの、赤にも千差万別があり、微妙な違いに不満足は消化できない。だが、少々の色違いなど、これもまた新米アラカンの、大いなる特性と妥協した。
 心はスッキリと落ち着きかけたが、不安がもくもくと湧き上がった。この色彩で、交通事故、急病等で救急車で搬送されたら一大事。そのまま天国へ直行なら、家族が赤面するだけだ。とは思ったものの、なさそうでありそうな未来のことなどで、心を惑わすなんてどうでもよくなった。せっかくのご好意に、毎日一個所ずつ日替わりメニューで、赤色を身に着けよう。
 平成二十一年は、自分は元より家族共々、無病息災で過ごせることを、赤い品々に祈っておいた。

◇作品を読んで

作品は、四百字詰原稿用紙に換算すると四枚である。原文は約七枚であった。削った内容は、還暦を祝う会の案内葉書が届いたことから、六十回目の誕生日に思いを巡らしたことが書かれ、それが作品の誕生祝品に続いていた。作者が主として書きたかったのは、「真紅の」祝品のことだ。
 前半を思い切って削ると、後半のエピソードが鮮やかに浮き出てきたのである。一般的に書き手としては、頭に浮んだことを全て書かないといけないような気になるが、多くのことを書き過ぎると全体が平板になる。せっかく書いた文章を削るというのは、まさに身を削られるような思いだが、よい文章にする一つのコツがそこにある。文学教室参加者は、こういう文章技術をも磨くことによって、読みごたえのある文章を生み出している。