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    魅せられる 
                       
       鶴見 優                                                                                                          平成21年5月28日付け島根日日新聞掲載

 私は、〈シマネスクくにびき学園〉の受講生である。
 今年の四月、『来待石の歴史』というテーマで講演を聴く機会を得た。
来待石≠ヘ地元の宍道町来待の特産だが、灰白色の軟らかな感触の石灯籠をよく見かけるものの詳しくは知らなかった。
 講師は来待ストーンミュージアム♀ル長で、四十代そこそこに見える若くてパワフルな永井泰先生である。
 いつものことながら、私は教室の最前列に座っていた。
 映像をもとに、二時間を休み無くぶっ通しで語り続けられた先生の来待石への熱き思いと、誇らしげに研究成果を発表される姿に引き込まれていった。
 講演は概ね、次のような内容であった。

 来待石は、千四百万年前、火山灰からできたもので、凝灰質砂岩からなる柔らかく細工のしやすい特徴を持つ。だからこそ、古くから重宝されたであろうことが想像できる。
 建物の土台や踏み石・石垣・松江城の城壁、水路・神社の鳥居、狛犬・地蔵・不動明像・観音像など使われ方は数知れず。
 最近では、ゼオライトといって、リンやアンモニアなどを吸着し、水の浄化にも役立つ環境に優しい石であることも分った。また、宍道湖周辺は古くから水害に見舞われてきたが、対策用に来待石が使われ、波消しとして小林如泥という人が考案した如泥石が今も多く残されている。
 一七〇〇年代頃から、神社には獅子にも似た獣の像、つまり魔除けとしての狛犬が、社殿前に一対据え置かれてきた。狛犬は来待石で作られていて、作者である石工(いしく)銘とそれを寄進した人物銘、紀年銘が印されている。今年に入ってから、山陰最古の狛犬の発見があり、不明であった石工銘も判明した。
 狛犬を寄進した人物とは、どのような立場にあった人なのか。当時は、松江藩と密接な関わりがあった。一例を挙げれば、長谷川東七という人物は、玉造温泉で湯之助≠ニいう湯宿を営む役職が与えられていた。『玉湯町誌』には、現保性館の先祖とある。調査をし、手繰って行くと、全てが点と線で結ばれてパズルを解くように、思いも寄らないことが明らかになっていく。研究者は、調査の苦労を忘れてのめり込んでいくのであろう。その狛犬は、遠く北海道、大阪、九州、下関など全国各地で発見されているというから驚きである。
 その頃、港から港へと海の交通が盛んであり、港を介して狛犬は各地に運ばれた。帰りの船には、船を安定させるため船底には石を積んだ。美保関の青い石畳は福井から運んだものである。
 来待石は石州瓦にも使われてきた。石見地方で出土する粘土質の土に粉砕した来待石の粉を混ぜて焼いたものが、赤い色を醸し出し赤瓦になった。来待石の全てが無駄無く使われていることも今でいうエコロジーであり、先人の知恵である。

 講演を聞きながら父のことを思い出した。別の機会に書いてみたいが、父は石が好きで、石組みの庭を造ったり、石を数多く使い、墓地を小公園のようにしていた。
 何かに魅せられ、その人自身がワクワク、ときめき、喜びに浸る。喜びは活力となり、体内にエネルギーを蓄える。気に入ったことからは、好奇心と探求心が刺激される。研究者は、そのエネルギーを調査、研究へと発展させるであろう。
 父のように単に趣味程度で終わる人もあるが、それにしてもさまざまである。
 いずれにしろ、何かにとりつかれる、魅せられるということは、羨ましく素晴らしい生き方だと思う。

◇作品を読んで

 冒頭にあるとおり、作者は「シマネスクくにびき学園」に通っておられる。その講座で、来待石の話があった。宍道町は、地場産業である出雲石灯籠の原材料“来待石”を産出する。作者は、その詳しい話に引き込まれた。
 知り得た知識をまとめてみたいという気持ちは誰にでもある。作者は講師の話をまとめて書き始めたが、それだけでは物足らない。というより、話を聞いて、同じように石を好み、周りの人が驚くほど精力的に石の庭造りなどをしていた父のことを思い出したのである。それを書いたことにより、作品は講演内容と父の思い出の二本柱となった。だが、それは虻蜂取らずになることから、原文の作品を二つに分けた。そのひとつが、この文章である。