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随 筆   寒 椿   
              佐 藤 文 香
 
                                                                            
                                   島根日日新聞 平成15年2月5日掲載

 明治四十四年、私の叔母は宮大工の三女として誕生した。叔母の母は産後を患い、僅か三ヶ月で亡くなった。叔母が四才になった時、後妻さんが来られた。そのころ、折悪しく、はしかが流行して叔母も罹患する。熱が下がらず、左目が飛び出て見苦しい顔になった。男の子にからかわれて泣いて帰ることが多く、ほとんど家の中で遊んでいたようだ。
 小学校に入学する。負けず嫌いもあったのか、毎学期末には一等賞の賞状と右肩に桜の印を押した算数と国語の本を賞品としてもらうほど頑張った。そんなこともあり、いじめられることもなくなった。
 二人の姉が教師だったこともあって、叔母は女学校を出たら同じ道に進もうと思ったらしいが、生徒にからかわれるのではないかと考え、卒業後は和服の仕立てを始めた。だが、一日中、座りっぱなしの仕事は体に悪い。考えを変え、美容の仕事をするために、つてもない東京に出たのである。どういう関係でそうなったか分からないが、代々木にある美容室に住み込みの弟子入りをした。私の父が保証人だった。
 それから十三年。一生懸命に努力したのだろう、美容室の先生が自分の故郷に帰られることになり、店をゆずり受けた。昭和十六年、太平洋戦争が始まった。戦争が終わりに近づくにつれ、疎開などもあってお客が減る。疎開もせずに東京に残る人もあり、中には、「明日、空襲で死んでも美しくしていたい」という客もあったという。切ない話である。そんな人たちが食糧を持って来てくれ、食べる物には困らなかったらしい。だが、東都空爆が始まり、とうとう叔母の店は焼失した。
 それを契機に叔母は松江に帰り、実家の離れに身を寄せる。既に四十才になっていた。戦後のことでもあり、美容で再起する気力はない。「六十六才のお爺さんだが、独りで困っておられる」と、後妻を勧められた。二人の息子を戦争で、妻も病気で亡くした人だった。家さえあればと、見合いもせずに写真交換だけで嫁いだのである。タバコ、日用品、衣料、生鮮食料品販売を営んでいる店だった。跡継ぎがないということで、私が養女として入り、翌年に主人を迎えた。
 店は、元日から大晦日まで一年中、休みがない。叔母たちは、大社にお詣りしただけで、出かけたことがなかった。老いてから新婚旅行に出かけたこともある。
 昭和三十年、私には養父になる叔母の夫は、脳溢血で倒れたまま帰らぬ人となった。非常に優しく、大切にしてもらっていたので、もう十年は長生きをして欲しかった。残念だった。
 叔母は旅行好きでもあった。タバコの収入は自分の通帳に入れ、松江にいる姉と二人でよく旅をした。一度行った場所も、十年経つと景色が変わったりしていて面白いと、年に二、三回は旅に出ていた。だが、喜寿の頃から、遠出は疲れると言うようになる。
 米寿を祝ったころから寝ていることが多くなり、食事は普通に摂るものの、「せつい……」と言うようになった。少し痴呆も出てきた。「笹巻きを二本も食べるとせつくなるよ」と私が言えば、「お前が、そんなことを言うなら、余計に食べてやる」などと口答えをするようになった。食べ過ぎるせいか体調をくずす。近所の主治医が、「大病院で検査をして下さい」といくら助言しても、「どこも痛くないから……」と、行かなかった。柔らかい食事も喉を通らなくなり、「楽に食べられるようになりましょう」となだめ、やっと病院に連れて行った。四センチもあるガンが見つかり驚いた。病院では、「胃の中にある間は痛くないが、食道に上がってくると大変ですよ」と言われた。
 入院して、流動食と点滴が始まった。毎日のように病院に行くが、「どこも痛くないし、まだまだ死なないから」と私を叱ったり、気分の良い時は旅の思い出などを写真を見ながら話してくれた。
 ある早朝だった。「血圧が下がったので、すぐ来て下さい」と病院から電話である。皆で慌てて駆け付けた。まだ意識はあった。耳元で「庭の梅が咲いたら持って来るから、待っていてネ」と言うと、微笑んで頷いた。モルヒネのせいか痛がらず、胸をさすると弱い息をしながら、時々、目を開けて何か言いたそうにする。だが、声が出ない。私が「大好きだった弟のKさんが来るからネ」と言うと、嬉しかったのか、一粒の涙を流した。
 お医者さん、看護婦さんが十分おきに来られるようになって、間もなく痙攣が始まった。しばらくして、叔母は大きい息をひとつした。
 窓の外に目をやると、雪を載せた赤い寒椿が一輪、重みに耐えかねたのか、ぽとりと落ちるのが見えた。九十一歳の生涯だった。


講師評

幼いころから知っていた叔母のところに、作者は養女として入った。叔母は、子どものころから不遇だった。だが、それをはね除け、自分の適性を見極め、気丈に生きた。九十一歳で息を引き取るが、そのとき、一輪の寒椿が落ちた。映画かテレビドラマの一シーンとも思える。情景描写をする場合、音と色が感じられる文章は、読む人の想像を豊かにし、感動を与える。
 文章はどうすれば上達するのだろうか。答えはひとつである。地道な努力しかない。書き続けることである。とはいえ、ただ書けばよいというものでもない。
 日本の芸術はすべて型から入る。茶道、華道もそうであり、型とは基礎である。それがあって花開く。碁や将棋にも定石という基礎がある。文章も同じではないだろうか。書きながらいつも基礎に返る。島根日日新聞文学教室は、それが目標でもある。