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    ほっとサロン   
                       
       高木 さやか                                                                                                          平成21年8月27日・9月3日付け島根日日新聞掲載

 病院の待ち時間にひょんな出会いから、がん患者さんと知り合いになった。右腕が左腕の、三倍はあろうかと思えた人だった。何のこだわりも持たずに、聞いてみた。
「去年毛虫の飼育を試みた時、チャドクガの必殺攻撃にやられ、右腕がパンパンに腫れあがり、えらい目に遭いました。お宅様は?」
「右のお乳ががんに侵され、全摘手術の後遺症でこうなりました」
「乳がんの進行具合にもよりますが、全摘は脇にあるリンパも取るので、十分リンパ液が流れず滞留し、こんな腕になる人は結構いらっしゃいます」
 しまった……。自分の思慮分別のなさをイヤと思うほど味わったが、後の祭り。
 きっと私の顔色が変化したであろう。彼女はえくぼを作り、「私は、こういうものです」と言いつつ名刺を差し出された。
 ――出雲市立総合医療センター ほっとサロン『ふらた』がん患者・家族の会――
 実母を胃がんで十数年前に見送り、主人を食道がんで数年前、遠い彼方へ持って行かれた。母の闘病に全身全霊を傾け、「負けるものか」と戦い続けて看病したが、一年余りで見事に負けた。
 こんな前例を持っていながら、またも主人をがんという魔物に攫われた。涙なんか枯れるものではない。一番身近な主人の僅かな異変を見逃した悔しさに、もう二度と立ち上がることは無理だろうと我を責めつつも何とか生き抜いた。私は、「未だに、主人の重さを引きずって生きているようだ」と思わず言った。
「その体験を必要としている多数の人が集う、ほっとサロンで、あなたに少しお話がしていただけませんか?」
 命について、希望・不安・絶望とあらゆる感情で苦悶の最中の人達に、私の経験がいかばかりの支えになるだろうか。座標軸を求めようとしている人の一端を担ってくれと、優雅な笑みを絶やさず彼女は言う。
 とっさに我が胸に稲妻が走り去った。一九七〇年、赤軍派による日本初のハイジャック事件の時、自ら人質となって解決に導いた山村新次郎運輸政務次官のことを思い出した。
「返事は少し待って下さい。余りにも私にとって、大きく重たい気がします」
 瀬戸内寂聴氏の『般若心経』にある、「どんな辛さも必ず時間が癒してくれる」という文字が、今でも胸に焼き付いている。聖書の中で救われた言葉に、「明日を思い煩うな」というのがある。本なんて自己流で当たり前と、自分に都合よく惑うことなく読む軽い性格に、ある意味で感謝をしているが、それでも自分流の考え方、捉え方などを悶々と思いあぐねていた時だった。
「月曜日・木曜日、午前十時から午後三時まで、島大附属病院の腫瘍外来の隣に、ほっとサロン専用の部屋があるんです。雰囲気だけでもどうかしら?」と、彼女は重ねて言う。
「では、明日の木曜日、私の受診日だから、一緒に行きましょう」
 人様からの頼みごとをキッパリとダメと言えない性格が、幸か不幸か、人には添うてみ、馬には乗ってみということになる。私特有のいい加減な覚悟で、「では、明日お供します」と、勇気を奮い立たせて伝えた。
「有り難う。附属病院のほっとサロンが、明るい雰囲気になりそうだわ」
 もうこうなりゃ何があってもかまうものか。口から飛んで出た言葉は、やすやすとバックはできぬ。その夜、「明日を思い煩うな」と念仏の如く胸に刻みつつ、いつしか夜明けを迎えた。
『ふらた』のサロンまとめ役の彼女は、病院の正面出入り口で私に駆け寄り、固い握手で応えてくれた。彼女の厚ぼったく腫れあがった右手を、何の気どりもなく両手で握っていた。
 サロンには、もう六人が集まっていた。現在、抗がん剤治療中の二十八才になるY子さんは、頭髪はもとより眉毛も抜け、可愛らしいピンクのバンダナを被っていた。Y子さんは、とても明るく話しかけてきてくれた。結婚して三ヶ月目に妊娠にしては変だと察知し、精密検査の結果一つの卵巣にがんが認められ小さかったので、抗がん剤で叩き直し、さらに小さくしてから手術の予定だと話した。年齢が若いほど、がんの進行は急ピッチだ。これでもかというほど、がんの転移を調べまわったが幸いなかった。明るい表情でがんと闘いながら、同じがん患者さんに優しいんだなあと、Y子さんに心から拍手を贈りたかった。
 日々がんと共生しつつ、日進月歩のがん治療に希望を持ち続け、最新治療の開発を待ち望みながら、患者同士、家族同士で連携を保ち、未来に向かい堂々と歩んでいる。
 雲南サロン『陽だまり』の代表お世話係りのK子さんは、一体どこががんなのかと疑う程の、迫力とパワーが満ちている。こっそり聞いてみた。
「一番目は卵巣がん、次が大腸、更にお乳と三度手術したけど、もうがんも懲りたらしい。めそめそ泣き暮すも人生、ガハハと弾ける笑いで暮すも人生」だそうだ。私のほうがぶったまげた。
 初めてサロンに寄った日から、丸一年間が過ぎた。
「この頃、U子さん見ないね」と、噂をしていた五日後、“死亡のお知らせ欄”に、名前が載っていた。サロンを心の安らぎとしている人達に、明日は自分が標的として降りかかるやも知れないという、心が凍て付く緊張感が極度に襲っているに違いない。
 私はおっかなびっくり、「少し書き物をしてます。最近、はまっている自己流のジョークエッセイでも読みませんか」と、水を向けてみた。
「笑えるでしょう。楽しい文章でしょう。いいね。いいね。この次にはきっと持って来てね」
 モニターをお願いしている友達にメールで、島根日日新聞に載せてもらった作品で結構楽しく思わず笑えたタイトル名をお知らせ下さいと聞いてみた。
 数日後、「あんたしか、あんな突拍子もないこと書かないよ」と、傑作五選のタイトルがメールで伝えられてきた。
 早速、次のサロンの日、その五作を持って行った。反応が今ひとつ不安だったが、含み笑いをする人、ハ・ハ・ハと声を上げて笑う人、クスクス笑いながら読む人――。ああ、良かった。安堵した。
 免疫力を高めるN・K(ナチュナルキラー)細胞は、笑いによって得ることができるらしい。
 島根県内には二十二のほっとサロンがある。他県より断然充実している。出雲市内に四箇所もある。歴史は浅いがこういう交流の場を作り、立ち上げた並々ならぬ苦労を経ての発展は素晴しい。
 がんに関するほっとな情報。小林祥泰院長さん、八塔累子副看護部長さん、ケアマネージャーの皆さん、各々の立場から一丸となり、サロンを支え見守っての今日がある。
 いよいよ三周年を迎え、県内のサロンが友好の輪を結び、出雲市民会館を拠点に『第一回全国がんサロン交流会in島根』が、九月二十一日、開催の運びとなった。沖縄から北海道までの患者さん、付き添いの家族、ボランティアの方々、おおよそ千人以上の参加者が見込まれている。
 がんは「早期発見・早期治療」が鍵である。そのための啓発運動に力点を置き、一人でも多くの方々がん検診を受けることを願っている。私は、お世話係となった。頼まれるとイヤと断れない性格がいささか恨めしい。末席でよかった。
 全国大会に向け、やはり資金面での不安が残る。個人は元より企業、団体様からの協賛金を得ることに走り回ることになった。協賛金協力お願いの用紙をほっとサロンから持って帰り、知人、友人、親戚、同級生くまなく思い浮かべていた時だった。
 亡くなった主人の義兄さんが、「お盆より前だが、弟の供養に寄った」と言い、お経を唱えてくれた。義兄さんは、寺の住職である。「飛んで火に入る夏の虫」と、一瞬、協賛金のお願いを頼もうと閃いたが、いの一番がお寺さんかと唸った。だが、必ずお世話にならざるを得ないと都合よく考え直し、用紙を差し出し趣旨を伝え、見事に第一号を獲得した。
 もう後に続くのは誰であっても、恐れたりひるむ必要はない。日ごろからお世話になっている、家族全員の家庭医である病院長の奥様、親しい看護師さん、調剤薬局の先生、そうそうたるメンバーが賛同され、「協力します」と貴重な寄付をいただいた。
 お盆過ぎから、新型インフルエンザが猛威を振るい出した。免疫力体力とも低下気味の患者さんが心配だ。初の県民挙げての協力体制で臨む全国大会が、無事に開催できることを祈っている。

◇作品を読んで

 作者は、癌ではないが病いを抱えているけれども、それを思いあぐねず明るく過ごしている。暗くなりがちな話が埋没してしまわないのは、作者の前向きに生きる姿勢があるからだろう。
“がんサロン”は、癌巖患者や家族が思いを共有しあう所である。島根は全国で初めて“がん対策推進条例”を制定した先進県で、他県からの視察が相次いでいるという。
 作品にもあるように「第1回全国がんサロン交流会in島根」が出雲市民会館で開かれる。パネルディスカッション、また他県のサロンを紹介する展示会などがあり、全国のサロン同士の交流を図るのが目的という。
 病の辛さが分かる作者だからこそ、こういう作品が書けるということだろう。