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    私の居場所   
                       
       泉 さとこ                                                                                                          平成21年9月10日付け島根日日新聞掲載

七月になると大人が変われば子供も変わる≠ニいう文字を染め込んだ桃太郎旗が並ぶ。この旗が目立つようになると、私たちのグループは募金のお願いに歩く。
 募金は更生保護施設、児童養護施設などを慰問し、愛の募金≠ニして届けている。
 今年もお願いに歩いた。グループの活動目的は何か。昨年いただいた募金がどのように使われたのか。米、野菜、石けん、タオル等でも慰問に持って行けば喜んでいただけることなどをお話した。。
 昨年に比べ、ほんの少しではあるが活動を理解していただくための時間をさいた。
 この活動は“社会を明るくする運動”の一環として、昭和三十七年に関東更生保護婦人連盟≠ェ結成されたことから、地方でも組織化が始まり、活動の輪が広がった。
 私の住む地区では、昭和三十九年、当時の婦人会長だった方が、婦人会の役員、篤農家婦人に呼びかけ、施設慰問から始められたと聞いている。年々重さを感じる募金活動に、発足当時の暮らしぶりはどうであったのか? 調べたくなった。 
昭和三十九年は、高度成長まっただ中で人口が都会に流れ「過疎」と言う言葉が聞こえ始めた頃だ。我が家も、父は親友を頼って都会に職を求めた。農家の暮らしは農業への期待と明るさが薄れ、出稼ぎのおかげでやっと子供の高校進学の目途がたつ。そんな暮らしぶりであったと思う。
昭和四十五年、私の地区の女性人口は約二千人。公になっている総合振興計画書から見つけた。所得は? 農業センサスを手がかりとしてめくってみた。一戸当たりの所得は、三十八万一千円程度ではなかったかと推測できた。田舎では家計費を預からせてもらえる女性は、まだ少ない時代である。そんな時代に、会員が慰問の協力依頼に地域に出かけていった行動に、勇気という言葉が頭に浮かんだ。たぶん今より家の中のルールーが難しく、その上に世間のルールにも重いものがあったと思う。ささやかでも、活動としての歩みができたということは、活動を認めて協賛する人がいたということである。活動はささやかでも、家から、もう少し広い社会への視点の穴を明けた大きい一歩ではなかったかと胸が熱くなった。
 その活動を引き継ぐ私たちはどうか! 会員の高齢化に伴う世代交代に骨が折れる。
 先日も、会員のお誘いに行った。
「良いことは分かっているけれど、今まで仕事で頭を下げてばかりだった。だから、もう頭を下げるのは勘弁して」
 仕事は、楽しいことばかりではなかったようだ。仕事だから頭を下げることが出来ていたんだと、今までの苦労を思ったら、もう一言誘う言葉を飲み込まねばならなかった。 この活動はボランティアだ。私は、慰問という形で関わることで、見えなかった社会の歪みや理不尽さ、自分の幸せを知ることが出来たと思っている。が、そこのところを話したかったのにうまくできなかった。
 募金のお願いは、今でも小さくない勇気がいる。
 七月の半ば、集まった寄付の一部を持って児童養護施設を慰問した。
 ちょうど、小学校の一年生が学校から施設に帰ってくる時間と一緒になった。 「ただいま」
 元気な声である。すぐ話しかけてくる。手をつなぎ、学校の様子など聞かせてもらう。
 事情があって施設で生活する子の、その事情を聞けば胸が痛くなる。児童養護施設だけではなしに更生保護施設にしても、思いやって同情を寄せることはたやすいが、その場所は、当事者からすれば、思いは遠いと見えないか……。
 私たちの活動は、年数回の慰問。ささやかなものだ。職員の方は、「毎年、忘れずに来てくれるおばさん。それが子供たちには大切です」と言っていただく。忘れられていない、誰かに見守られている。そう思える事が大事ですからと、付け加えられた言葉が重い。
会の発足から四十年を超えている。当時と比較すれば生活は格段に豊かになっているはずである。が、慰問に行く所では何をもって幸せというのか、言葉に詰まる現実を見せられる。
 どんなささやかな行動でも「そうよ、一緒にしようよ……」と言ってくれる人を身近に感じていたい。そこを私の居場所にしたい。

◇作品を読んで

 更生保護制度ができたのは、戦後、間もない昭和二十四年であった。書かれているように、昭和三十七年には関東地域で、その二年後には全国組織が誕生する。現在の“日本更生保護女性連盟”である。作者も活動に参加しているのだが、「年々重さを感じる募金活動」から、これまでの暮らしや活動、難しくなりそうな今後の在り方などについて思いを巡らす。
 そして、「毎年、忘れずに来てもらえることが、子ども達にとって大切なのだ」という施設職員の言葉に励まされ、「一緒にしようよ」と語る仲間と共に、そこを自分の居場所にしようと考えた。
 前週に載せた、癌に関する『ほっとサロン』もそうだが、これらのエッセイが、いろいろな活動の啓発に役立てば幸いだと思う。