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    私の楽しみ   
                       
       目次 慶子                                                                                                          平成21年9月17日付け島根日日新聞掲載

 人が生きていくためには、毎日、三度の食事が必要である。
 明治生まれの母が健在だった頃、我が家では食事の用意といえば母の役目で、それも手作りだった。
 台所は、いつも野菜の山。
 食欲盛りの孫達がいたせいでもあるが、コロッケでも作ろうものなら、数もかなり必要である。そのたびに、パン粉が調理台の周りで、見事に散らかっていた。
 その時から私は、コロッケだけは出来た品を買って食べようと思い続けてこれまできた。
 娘達が小学校時代、夏休みの自由研究を理由に土地を借りて、キャベツや白菜などの野菜を作り始めた。
 二十余年が過ぎ、娘達はみな嫁に行ったが、なぜか畑作りだけは続いている。だが、畑まで行くには、一時間近くもかかってしまう。
 最近、その畑で、馬鈴薯、甘藷、アスパラガス、玉葱などを収穫した。
 玉葱は、早生、中生、晩生と、それぞれ百本づつ植え、生長に合わせて肥料をやった。特に、雑草との戦いには苦労した。
 その経験から作り続けたい品種は、早生に決めた。理由は、種類の異なる料理にそれぞれ加えても、甘味が増し、美味しく感じられるからだ。だが、保存が難しく、腐りやすいのが難点だ。
 それに比べて、雑草は思ったより早く生長する。油断すると、畑は草だらけと化す。根は堅く、手の力だけでは、耕すことが不可能だ。仕方なく、雨が降る日を待ち続けながら、次に植える作物を考える。
 年老いて力が弱くなったこともあり、今年は考えを変えた。家の狭い裏庭に、大きい鉢を二つ置き、ミニトマト、普通の大玉トマトをそれぞれに植えた。
 ところが天候が良かったのと、土と苗の相性も理想的であったらしく、主人と二人で食べきれない数を収穫したのである。
 畑との違いは、一体、何だろうか! と唖然。
 我が家で出来る作物には、虫くい、雨に打たれて少々腐りかけたもの、晴天に恵まれて水分が少なく、味が濃厚なものなどいろいろだ。だが、自分の育てた「作品」は苦心の思いも一緒になり、スーパーなどで買った商品とは一味異なる味覚である。
 人はパンのみに生きるにあらずなどとはいうが、さりとて食べないわけにはいかない。
 今日もまた、収穫物を眺めながら、食事の用意に時間をかけて思いを巡らす。私の楽しみでもある。

◇作品を読んで

 何か作品を書かねばと考えているうちに、母のことを思い出した。母は、野菜を使った料理が得意だった。野菜のことは、畑作りの話へとつながった。
 広い畑は収穫量を増やすのだろうが、そのぶん雑草との戦いが始まる。そこで発想を変えて、鉢にした。ところが畑と同じくらいの収穫があった。これは一体どうしたことなのだと、作者は天を仰ぐ。そのあたりの落差も面白い。
 文章を書き始めると、たいていの場合「書くことがない」という壁に突き当たる。つまり、一行書いて終わりになるのである。ならばどうするか。「その一行に無いことを付け足す」のである。「雑草は早く生長する。」と書いたら、畑がどうなるのかと考える。「草だらけ」という状況が浮かぶ。そのことを書く。草をどうしようかとまた思う。草だらけに溜息をつく、などと書き足す。一文を広げていけば、雑草ではないが、文章はいくらでも伸びる。