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    なんとも不可思議な   
                       
       大田 静間                                                                                                          平成21年9月24日付け島根日日新聞掲載

 古稀が過ぎると、俄然、仏事に関わる機会が多くなる。
 先日、伯母の四十九日の法要に招かれた。
 この種の儀式に参加すると、いつも思うのだが……。連座して、読経を聞く時の心得が分からない。
 僧が唱える難解な熟語の羅列は、冥土に旅立った故人に語りかけているのだろうか。それとも、学校の卒業式で送辞を述べる代表の役割を務めているのだろうか。
 それにしては、代表が何を伝えているのか、列席している私には分からない。まさか、冥界にいる人たちは鬼籍に入った途端に、難解な語句を解するようになるわけでもあるまい。
 気怠そうな抑揚が鼓膜を刺激すると、いつの間にか、つまらぬ想像を巡らせている。 
 しかし、この日の法要は少し違っていた。
 定刻になると風呂敷包みを持った僧が現れ、経典が配られた。
 自分の先導で、全員に経文を読んでもらおうという趣向らしい。今風に言えば“全員参加”である。
 なるほど、これなら理屈に合っていると納得をしたが、文字を追っていても、やはり難解であることには変わりない。
 三十分もすると、正座の維持が限界になる。
 ふと、見覚えのある語に出くわして驚いた。
 
 阿僧祇(あそうぎ) 那由他(なゆた) 不可思議(ふかしぎ) 無量大数(むりょうたいすう)

 いずれも国家予算などで目にする数字、つまり、億や兆などの単位を表す類の語である。寛永四年、吉田光由(よしだみつよし)が著した数学書の『塵劫記(じんこうき)』にも書かれている文字だ。
 二十(はたち)を過ぎたころ、クイズにでも出そうなこんなことを覚えて、得意満面になっていた。
 それにしても、なぜ仏教の経典に数字の単位などが載っているのであろうか。
 さすがに、いい齢をして理由(わけ)を尋ねることは憚られた。
 これは、無限である宇宙を表現する代名詞か、あるいは、悟りの功徳は計算を超えたものであると言っているのではないかとも解釈した。
 経典には、現世の愛憎とか欲望の戒めばかりが書いてあると思っていただけに、意外であった。
 お釈迦様は説教の中途、無限に思いを馳せるようにと、粋な計らいをなさったものだ。
 ちなみに、“不可思議”には、一の次にゼロが六十四個も付くそうな。最終単位の“無量大数”に至っては、六十八個と気の遠くなる数値である。

◇作品を読んで

 ある日の文学教室で、「地名や年代も作品の主役になることがある」という話をしたときのことである、作者は題材を「思い付いた!」と、突然に言われた。何だろうと思っていたら、数日後に送られてきたのは数字を素材にしたこの作品であった。四百字詰原稿用紙で三枚にも満たないが、中身は興味深い。
 経文の中に数字が秘められていたというのは、特異な題材である。ミステリー作家なら、これを使って謎解きを書くかもしれない。読経を聞きながら作品の題材を考えるというのは、なかなか出来ない芸≠ナあるが、それは要するに、書くという目でものを見る、人の話を聞くということではないか。 
 文章を書く基本は、常に疑問を持つ、観察する、そして、柔軟な遊び心があるかないかである。