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随 筆 思いを込めたシクラメン   
              柳 楽 文 子
 
                                                                            
                                   島根日日新聞 平成15年2月12日掲載

 念願のシクラメンを買うことが、やっとできた。

 六年前からうつ病と闘っている。相当長い付き合いになりそうな感じだとは思っていた。初めの二年間は、薬物療法でどうにか症状は軽く治まった。三年目の秋、ちょうどシクラメンが花屋の店頭を彩る頃、少し重いうつ状態となり、とうとう入院した。本当に残念だったが、シクラメンは買うことができなかった。四年目も、五年目も同じだった。毎年のように十一月になると好みの色のシクラメンを一鉢ずつ買って楽しんでいたからだ。
 去年の一月半ば、三回目の退院をした。退院してまもなく、友人の一人が、島根日日新聞文学教室受講者募集が掲載された紙面をファックスで送ってくれた。以前、その新聞に少しだけ書いたものが連載されたことがあり、まんざら興味がないわけではなかった。しかし、私には一年間となっている文学教室を続けるだけの自信がなかった。なぜなら、大きな爆弾を常に抱えているからだ。
 ファックスを送ってくれた友人に相談がてら、私の病気のことを詳しく話した。
「無理だなー、と思ったら途中で止めればいいじゃない。初めから諦めたらもったいないよ」と、気楽に励ましてくれた。しばらく思い悩んだが、友人の言葉どおり、半ば開き直りの精神で、四月からの文学教室に参加した。
 毎週の勉強会は実に楽しかった。我流で書いていた文章の欠点が、手に取るようにわかり、文を書くことが更に好きになった。友達に、どんどん手紙を書きたくなったのも、きっと文学教室の思わぬ産物だろう。勉強の楽しさが存分に味わえた。体調がすこぶる良い時は、家でも原稿用紙に向かえた。
 こうして夏も過ぎ、私が最も苦手とする秋になった。
 毎年のように、カレンダーが十一月に変わったとたん、心身が、これ以上月日が進まないでくれと拒絶反応を起こす。しだいに憂鬱な気分になり、あまり人と会いたくなくなる。実に不思議な現象で、うつ病独特の症状でもある。
 しかし、昨年の秋は、思っていたより症状が進まなかった。落ち込むことは度々あつたが、薬の処方を変えてもらったり、生活パターンを変えたりと、いつにない努力をした。きっと、(文学教室に行かなければ)という心地よいプレッシャーが陰の力となって働いていたかもしれない。この調子なら入院することはなさそうである。感覚的に身体が感じたら、シクラメンが買えるぞと、とっさに思った。
 シクラメンの季節になった。とても求めたかった薄紅色の花びらのシクラメンが頭の中一杯に広がった。そう思った途端、私は一目散に車に飛び乗り、花屋へ直行していた。イメージ通りのシクラメンを手に入れた。なぜか我が子のようにいとおしかった。無性に嬉しかった。
 四年ぶりに自分の手で買うことができたシクラメン。
 真っ直ぐに二十センチばかり伸びた茎の項上に、羽をたたんだモンシロチョウのような花びらが、仲良く一塊になっている。固くしっかりした葉っぱをそっと掻き分けて根元を見た。六本ほどだが、三センチばかりに伸びた茎がある。その先に錦棒の先ほどのような小さくて固い固いつぼみがしっかりついている。
 上手に育てて、このつぼみにも必ず花を咲かせてみよう。花が美しく咲けば、きっとシクラメンも嬉しいに違いない、そう思った。
 部屋を暖房する時は涼しい場所に移し変え、土がからからになっていないか、しょっちゅう指で確かめ、気を配った。主人にもこれくらい気を使えば、まことに良い夫婦だろうにと、にんまりしながら花びらの色合いと茎の生長を見た。
 冬になっていた。明るい日射しに誘われて、物干し場の隣にある畑へ出てみた。雪でぺしゃんこになってしまった、えんどう豆がどうなっているか気がかりだった。えんどう豆は、へろへろになりながらも、薄緑色の小さな葉を、風にひらひらさせながら、自分の存在を精一杯訴えかけているようだった。とてもいじらしく、涙が出そうになった。名前も呼んでもらえないような雑草も、畑の野菜たちも雪の重みから解放されると、一段と成長したたくましさを見せてくれる。だれに命令されるわけでもない。その生命力の豊かさに、私はただ感心するばかりだった。
 クリスマスの頃だった。あんなにちっぽけだった蕾も色づき、中の二本は「私は、今生まれたばかりよ。仲間に入れてね」と、小さくかわいい花びらをつけている。買った時には三センチばかりの茎が、グーンと伸び、十センチ以上になり、私を楽しませてくれている。
 自分の病気と植物の持つ力強さの中にある大きな力を重ね合わせてみた。これまでは少し辛いと、「もうこれ以上の命はいらない。すぐにでも消えてしまいたい」という後ろ向きな考えばかりに走りがちになっていたが、今は違う。
 今年は、我が家で新年を迎えることができた。ありがとう、シクラメン。病気に負けず、生きて行けそうな勇気が湧き出てくる。
 今年の秋にも、きっと私の手で純白の花びらのシクラメンが求められますようにと、呟くようにそっと祈った。

講師評

 書き出しに「念願のシクラメンを買った」とあり、読者は「何で?」と思う。巧みな導入で、読み手を引き付けた。続いて、その理由が語られる。その時期になると、いつも入院をしていたからシクラメンどころではなかった。そして、作者は、自分が抱える病いをシクラメンに託して赤裸々に示し、終末の「私の手で」という言葉によって強い思いを締めくくる。
 一人ひとりの持つ名前が違うように、生活や環境、体験は異なる。それを具体的に、自分の言葉で書くからこそ、読み手が感動するのである。ただ事実を羅列的に書いては駄目である。どう描写し、心の「ひだ」まで書くかである。この文には、幾つかのそれがある。
 島根日日新聞文学教室が作者の病気克服に、少しばかり役立ったらしい。身近なところで、自分で打ち込む何かがあるということは良いことだと思わせられる。