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    小さなボランティア   
                       
       鶴見 優                                                                                                          平成21年10月15・22日付け島根日日新聞掲載

 定規で測ったかのように、青緑の長い直線に刈り込まれた生垣の映える田嶋邸を訪問するようになってから、何度目だろう。前回の訪問から、かれこれ十ヶ月位にはなるのだろうか。独り言を繰り返しながら、今日はどんな話になるのかと思いつつ、だんだん変わり映えのない内容になってきていることを感じていた。
 田嶋誠、七十七歳。二年前に、胃全摘手術を受けている。熱心な天理教の信者で定年まで真面目に仕事を勤め上げ、堅実に人生を歩んできた人である。子どもがなく奥様と二人暮しで、私とは同じ隣保にあたり、回覧順から奥様とは挨拶程度の短い会話を交わす間柄であった。
 二年前の春だった。
「夫が進行ガンだと宣告されたの。班長を引き受けたばかりだけど、入院するので暫く家を空けることになったわ」
「まあっ、それは大変ッ。どちらの病院へ?」
「日本中調べて、静岡の病院にしたのよ」
「静岡には、どなたか知り合いの方でも?」
「いいえ。全く知らないところなの。それでね、会長さんにも頼みに行きましたけど、そう迷惑かけることは無さそうです。よろしくね」
 穏やかに仲良く二人で暮らしてこられたご夫妻にとって、ご主人の大病は青天の霹靂であったと思われる。奥様の狼狽ぶりからも、充分伝わってきた。
 七年を過ぎたとはいえ、私も同じ手術経験者であり、看護師という職業柄とても黙って見過ごせない気持ちになっていた。

 田嶋氏が手術を終えて三ヶ月位経った頃、近くのスーパーで奥様と出くわした。
「あら、奥様、どうしていらっしゃいます? ご主人の容態はいかがですか」
「ああ、良かったぁ、よい所で会えて……。一度是非来ていただきたいと思っていたところでした」
「そうですか。それはいいんですけれど、どんな具合ですか? 心配してましたよ」 
「それがね、手術は上手くいったとあちらの、つまり静岡の先生は言ってくださっていまして、松江市立病院の先生に紹介してもらい、月一回通院をしています。こちらの主治医の先生からも今のところ異常は無いと仰って頂いているのですが、病気になった者しか分からんわねえ、と事あるごとに言われてます」
 堰を切ったように、目頭をハンカチで抑えられた。ご主人のことで心を痛めて辛いだけではなく、これまでの度重なる心労から私の顔を見た途端に、張り詰めた気持ちが解き放たれ、思わず涙が込み上げてきたようにも見えた。
 大病を宣告された者が、死の不安をひとりで抱えこむことはあまりにも荷が重過ぎる。それを傍で支えることになった奥様も、勿論初めての大役である。私の経験がご主人の参考になり、奥様の心の負担を僅かでも楽にすることができれば幸いだと思った。
「そうですかあ、大変でしたねえ。お役に立てるのなら、お話に伺ってもいいですけど……」
「ありがとうございます、お願いします。あなたもお忙しい人ですから、都合のよい時に是非話をしてやってください。本当はこのところ、しきりに急かされていたんですが、忙しい方だからそんなに言っても、と申しておりました」 
 ご夫妻から見れば、同じ手術を受けた者がどうしてそんなに元気でいられるのか、よい見本であり、何より安心と勇気を貰える、というのが本音のようである。
「若い頃から信心をし、人様のお世話も随分してきた私が、なんでこんな大病にとりつかれたのかと思ってねえ」
 私の顔を見るなり、ご主人はそう言われた。
「そうですね、何が原因かわかりませんがストレス、働き過ぎなど生活習慣病、生活の仕方などにも問題があるとも言われています」
「……」
「何でだろうと、考えてもわからないですね。命拾いしたと思って、前向きに明るい気持ちで生活することが大切です。再発するかも、悪くなるかもと、心配ばかりしていても……。病は気から≠ニも言いますよね。気持ちが暗くなると身体にも良いことはないので、先ず気持ちを切替えて、生活の仕方も変えてみませんか」
 ご主人は次々と自身の検査データや切り抜き、コピーなどの資料を、うずたかく積み上げられ、研究熱心なところをアピールされる。習い事でも趣味でも、男性の方がのめり込むというのかハマル人が多いように思う。
 データー上からは、特に心配するようなことは無かった。
「看護師さんという仕事柄、人様のお世話を沢山されてこられてご苦労があったことでしょうね」
「そうですね。仕事というものは、こんなものだと思ってやってきました。随分無理もしました。ストレスもあったことは確かですね」
「そうでしょうねえ」
「今、どんなことにお困りですか?」
「食べた後がえらいので、消化剤を貰って飲んでいます。時々下痢っぽくなるので、長時間出かける時は、ちょっと心配です」
「私は消化剤や胃薬は一切飲んでいませんが、飲まないほうがよいといってるのではありません。飲んで調子がよければそうされてよいと思います。どうしても胃が小さくなってる分、脂肪の吸収が悪いらしく下痢しやすいように思います。私の場合、朝はパンにバターをつけて食べたいのですが、大抵下痢をするので控えていますよ。焼肉や天ぷらなどの揚げ物もお腹が張ってくるので少な目にしています。経験上から、野菜・果物・穀類・魚類がやっぱり一番身体に馴染むというのか、胃に優しいというのか、納まりが良いように思いますよ」
「そうですか、よく分かって、気をつけておられるのですね」
「田嶋さんの場合、食事は奥様が気をつけて作られておられますので、量の加減はご自分でなさらないといけませんね」
「結構、いろいろつまみ食いしますね」
「つい、ダラダラと食べてしまいがちですものね、気分転換にもなるし軽い運動をおすすめしますが」
「お二人で散歩でもなさったらいかがでしょう。お宅の周辺はよい環境ですもの、歩ける場所が沢山ありますね」
 確か、前回も軽い運動をするよう散歩をすすめたと思うが、実行には至っていないようだ。今回も、あまり乗り気ではないようなのが残念だ。
 逆に尋ねられた。
「あなたは、何かされていますか」
「私の場合、食事は自分で作りますので気をつけて野菜中心にしています。一番の問題は運動不足だと思い、社交ダンスを始めました。散歩もほぼ毎日しています。毎日の生活の中で、できる限り歩いたり運動をするように心がけています。少しばかりの医学知識を基に、病気にならない生活を実践しようと心がけています」
「ホラね、お前も見習ってやらないと」
 ご主人は奥様に向かって、まるで妻が悪いと言わんばかりだ。
「違うでしょッ、あなたでしょッ」
 奥様は、呆れ顔で笑いながら手を振った。
 完璧に家事をこなしている見本のような奥様は、運動することにはあまり興味は無さそうであり、家事労働で十分という思いなのかも知れない。客間から見えるキッチンもきちんと整理され、シミ一つ無くピカピカに磨かれていた。比べ物にならない我が家の状況を思い浮かべ、一瞬気持ちが凹んだ。
 男性のほうが妻に甘えているのか、依存したがるものなのか、微笑ましいと思うべきなのか、思わず苦笑してしまう。
 病気仲間の集うサロン≠ノも、よく出掛けているというご主人。お喋りが大好きなので、仲間づくりにも熱心なようである。
 勝手に小さなボランティアと決め込んでいた私は「ちょっと待てよ、単なる自分だけの思いあがりではなかったか」と思わせる今回の訪問であった。
 七月末、午後の半日をエアコンのよく効いた部屋で過ごし一歩外へ出ると、長引く梅雨の湿った空気に西日が重なり、蒸し返すように私の肌に纏わり付いてきた。慌てて日傘の中に顔を埋め、自宅まで十分もかからない帰り道を急ぐ。

◇作品を読んで

 知り合いの人から、健康についての相談を受けた。既にリタイアしているのだが、作者は看護の資格と経験がある。聞いてみると、胃の全摘手術を受けたという。胃全摘とは、胃を全部取ってしまうことである。そんな人が最も気にするのは、食事の問題だろう。
 黙って見ている気持ちにはならなかった。近所ということもあり、率先して訪問し、いろいろアドバイスをする。夫妻は共に研究熱心であったし、同じ患者との交流にも積極的だっった。そのこともあって、助言をしてよかったのだろうかと作者は迷う。
 結末部分の段落に書かれている「日傘の中に顔を埋めた」というのはそんな気持ちの現れで、西日ばかりのせいでもないようだ。タイトルもそうだが、冒頭もそれを予感させる。