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随 筆 まぼろしの花   
              山 根 芙美子
 
                                                                            
                                   島根日日新聞 平成15年2月19日掲載

 台所の窓を開けると、二キロほど向こうに、東西に連なる通称北山が見える。高さは五百メートル前後である。夜になると、その裾野にかけて数えるほどの人家が蜜柑色の灯をともす。
 この地へ家を建ててから、四十年あまりが過ぎてしまった。初めの頃は、あまりに風が強いので、小さなわが家はいつ吹き飛ばされるかと、台風のたびごとに震え上がる思いであった。
 近くに点在する農家の、北西にしつらえられた築地松を眺めるたびに、先人の知恵が思われ、しみじみ納得できたことである。そのうちに、だんだんと家が立て込んできて風当たりも緩和され、庭に植えた木々も大きく育ち、住めば都になっていった。
 ところが、いくたびか増改築したこの終の住家の真ん中を市道が通ることになり、二年先には立ち退かねばならないことになった。そうなってくると、何もかもが掛け替えのない、得難いものに思われてどうしようもないこの頃である。
 山は、四季折々というより、毎日ちがった風情を見せてくれる。粉をまぶしたような雪、山を隠す吹雪、斜めに降る時雨、澱んだような黄砂、紅葉、新緑。稲妻に浮かび上がる稜線の姿も捨て難い。
 寒さのゆるむ三月なかば、正面左寄りの中腹に、ふわりと現れる一樹がある。初めはぼんやりとしているが、しだいにはっきりとした白になり、やがて毅然たる純白になる。
 遠見なので全体が紡錘形となって、芽吹き前の山に嵌めこんだように思える。相当、大きな樹だろうが、双眼鏡を覗いて見ても、かっきりと白いだけである。
 家では、白木蓮であろうと言うことになっているが、案外、辛夷かも知れない。でも、あの何とも言えない輝くような白さは白木蓮にちがいない。
 一体、いつ頃から意識するようになったのだろう。何年か前、見当をつけて麓の方まで行ってみたが全くわからなかった。離れているからこそ見えるのである。麓のあたりに住む知人に聞いても、わが家から見える位置だから、方向音痴の私の話では説明にならない。
 木蓮の原産地は、中国だそうである。とすると、誰かが植えたことになる。多分、あのあたりには廃屋があるのであろう。夜になっても灯の見えることはないのだから。
 しばらくは、毎朝、窓を開けるのが私の楽しみになる。けれども、一週間もすれば純白は目立たなくなり、あっと言う間に山の色に溶けこんでしまい、私も忘れてしまう。
 何年もの間、あの場所までのぼるのが夢だったが、とても果たせそうにない。ここから眺めることも、多分あと一回しかないであろう。
 何の花か、確かめることも出来なかったけれど、まぼろしの花として、私の心の中と山の中腹に毎年咲きつづけてくれるだろう。

講師評

 彼方の北山に白い花が、その季節になると毎年のように現れる。一度訪ねてみたが、分からなかった。その花は、一週間もすると消えてしまう。まさに幻の花である。
 読み進めながら風景を思い描くことができるのは、使われている言葉が、見事な花のように美しく、的確だからである。作者は何年も、どことも決めかねる場所の花を眺め、思いを心の中で育んできた。それが、言葉となり文字となってこの文章に結実したのである。
 この花探しには、後日談がある。幻の花だと諦めていたが、友人から花の場所を聞いた。春を待ち、訪ねたところには一軒家があった。近所には、かつて何軒もの家があったが全て山を下り、今では一軒になった、とその家の主は言う。花は予想通り白木蓮だった。「九分咲きの花を掲げている。飛び立つ前の白い鳩の群れとも、燭台の白い炎とも見える。」と作者は、花の姿を描くのである。その作品も感動的な文章で綴られている。