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随 筆 キーワードは『遊び』   
              坂 本 達 夫 
 
                                                                            
                             島根日日新聞 平成15年3月18日掲載

 スポ少の野球練習を見に行った。エラーばかりしている。相手のグラブ近くにボールが投げられないのだ。受け損ねたボールを取りにも行かず、ぼっーとしてボールの行方を見ているだけの子もいる。
「うちの子は、小さいときから野球をやっちょったけど、テレビゲームの野球でして……」
 あるお父さんは、苦笑いをしておられた。
 二月、大阪へ同僚の先生と研修旅行に行ったときのことである。
「ほら、子どもが遊んでいますよ。」
 一緒に歩いていた先生が言う。五、六年らしい子ども達が、男も女の子も笑顔で遊んでいる。しばらく行くと、今度は、四、五人の子ども達が真剣に何かを話している姿を見た。
「子どもが街で遊んでいるのを見るのは珍しいね。」
 私達は、妙に感心した。
 出雲でも、街で遊んでいる子ども達を見かけない。幼稚園児のいるお母さんが、嘆いておられた。
「ケーブルテレビを付けたら、チャンネルが四十以上もあって、休日は好きなテレビをビデオに録ったり、漫画ばかりやっているチャンネルを一日中見てるんですよ。」
 家の中で一人遊びをやっている子ども達は、キャッチボールが下手なんだろう、言葉のキャッチボールも同じだろうなと思う。
 不登校の児童や生徒が問題となっている。原因は様々だが、共通しているのは、自己表現、特に、会話がうまくないということである。自己表現が下手な原因は、「遊び」にあるのではないか。
 アメリカの社会心理学者G・H・ミードは、「人の子がまっとうな社会の一員となるには『他者との相互行為』が不可欠である。」と言っている。少子化によって兄弟が少なくなり、外で友達と遊ばなくなったことで、急速に『他者との相互行為』の練習の場を失った。だから、他者との言葉のキャッチボールが下手で、他者の心の中へ真っ直ぐに投げられず、他者と良い関係が構築できないのである。
 この間、私の娘が二才と三才になる孫を連れてやって来た。私達夫婦にこの子達を預けると、娘はさっさと外出してしまった。夕食準備の時である。三才の孫娘が手伝いたいと台所にやって来た。皿を運ばせていると、自分も――と二才の孫娘も泣きながら言う。この子にも皿を持たせたが、途中で転んだ。夕食の準備で忙しい私は、三才の姉に妹の面倒をみさせた。
「泣いたらいけんよ。」
 姉は上手に起こしてやりながら、なぐさめていた。
 次の日、朝食時だった。母親に抱かれて食べる妹を見た姉が、やんちゃを起こした。
「これはいやだ。あれを食べるのはいやだ。」
 私は姉を母親の近くに行かせ、この子にも一緒に食べさせるようにした。ところが、今度は妹のほうが泣き出した。いらいらした娘は声を荒げた。
「あんたら、いつもこうだがね。食事になると我が儘ばっかし……」
 とうとう最後には、孫娘達二人とも泣き出した。普段の日は、保育所に預けられている。休日の日ぐらいは母親に甘えたいのである。ついに母親はいらつき、姉を叩いた。私は言った。
「なにすうか――。自分の言うことを聞かんからといって叩いちゃいけん。ちゃんとやり方がああけん……」
 二人を並んで座らせ、姉に言った。
「Aちゃん、あんたは上手だけん、Bちゃんに食べさせてやって……」
 姉が上手にスプーンでご飯を妹の口に入れてやる。やっと騒動が治まった。
 私の娘は、忙しい、疲れているなどと言って、娘たちと遊んでやらない。言うことを聞かないと怒ってばかりいるらしい。孫娘達は、時々けんかもするが、一人が泣いていると一方が抱いてやったり、背中を撫でたり、互いを思いやる心が見える。姉は姉さんらしいことをしたいという気持ちもあり、妹に気を使うのである。
 今や、テレビが子守りをし、ゲーム機が子どもの遊び相手になっている。それらは、子どもが失敗しても慰めてはくれない。話しかけても何も答えてくれない。人間の子どもが人間として成長していくために、『人間と遊ぶこと』が今こそ絶対不可欠である。
――二十一世紀の子育てのキーワードは『遊び』だよ。我が子としっかり遊んでやれよ。機械でなく、人間と遊ばせてやろう。できれは、自然の中で……。でないと、皆さんの老後はどうなるか知らないよ。――

講師評

 スポ少と大阪で出会った子ども達の様子と家族のことから思い至った子育てへの提言で、孫娘の話はリアリティがある。
 体験を書くということは易しく思える。だが、自分だけが知っていることだけに、無駄な文を省き、読み手に感じたことを含めて正しく伝えることは、なかなかに難しい。よい文章は、正確に、具体的に表現できているかどうかで決まる。ある事実が、どちらにでも受け取れるような書き方では、読み手は混乱する。「提灯に火をつける」という文がよく引合いに出される。「正しく読む」と、提灯を燃やさねばならない。正確には、「提灯の中のロウソク立てに挿してあるロウソクにマッチで火をつける。」ということになる。。法律文は全てこのような書き方になっている。随筆などはそれほどの必要がないが、読み手に分かり易く書くという意識は大事なことだ。読み手がいるということを忘れてはいけない。(古浦義己)