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随 筆 古 箪 笥
              穂 波 美 央 
 
                                                                            
                             島根日日新聞 平成15年5月28日掲載

 古めかしく濃いセピア色になっている亡母の嫁入り箪笥は、かつて「白い箪笥」と呼ばれていた。
 旧い田の字作りの我が家に、形見としてこの箪笥を貰い受けた時は、あちこち付属している金具が壊れて穴が開いていたり、紐が付いていたりして痛ましい有り様であった。そこで、知り合いの箪笥屋さんに手を入れてもらった。金具は時代遅れのものが使ってあるので、品不足とのことだった。
 修理されて戻ってきた箪笥は、元のイメージとは、少々かけ離れた感はあるものの、小引出しを抜くとハーモニカの音の出るようになっていたところなどは、昔と同じで嬉しかった。
 父は旧制中学校の教師であったが、昭和の初め頃、赴任地で母と結婚した。そして私が生まれた。
 赤ん坊の時、泣き出すと面白半分に箪笥の引出しの中に入れられたと聞いたことがある。どのくらいの時間、入っていたのだろう。きっと、母がすぐに取り出したのではないだろうか、などとその時の様子を思い浮かべてみるのである。
 少女時代、私は箪笥を開け、母の衣装を広げて見るのが楽しみだった。中でも紫色の留袖で鳳凰の裾模様は、殊の外鮮やかであったし、空色の絽の着物で夏草の裾模様を見ていると、うっとりとした夢心地にさせられた。それらが、遙か遠い思い出として脳裏に残っている。
 昭和二十四年、父は結核のために四十五才の若さで亡くなる。母は四十才そこそこだった。下の弟は一才に満たなかった。もう一人の弟は六才、妹は十才であり、三人の幼児を抱えて生活は苦しかった。そんな中で十七才の私は、旧制の女学校を卒業した。
 その頃になると、白い箪笥の中にあった衣装は、次々と質屋に入り、私に夢を与えてくれた着物の数々は二度と見ることができなくなっていた。
 下の弟を保育園に預けて、母はある問屋の事務員として働き出した。四十過ぎて、初めての経験である。よく伝票を持ち帰り、夜遅くまでソロバンを弾いていた。
 末の弟が高校を卒業すると母は退職した。六十才になっていた。運命と言うのだろうか、待っていたように今度は、父の母親である姑の世話をするため京都に移り住んだ。慣れない土地柄の上に、人間的にも並はずれた苦労を重ねたのであろう。発狂寸前にまでなった母は、病院生活を余儀なくされた。幸いにも数年後、すっかり立ち直り元の姿に戻った。
 それからの母は、自由奔放に暮らした。父と自分の年金を受けていたこともあり、欲しいままに、それまでに失ったものを取り戻すかのような毎日を過ごした。
 着物も次々と増えて箪笥に納められ、よく似合う和服姿で外出を楽しんでいた。その母も平成四年の正月を目前にして亡くなった。
 そんな母をじっと見つめてきた白い箪笥は、母や父の手あかが残っているのだと思うと、いとおしく見えてくる。
 今は私の手あかも加わり、黒ずんだ古箪笥になってはいるが、母の晩年の着物も形見として染め替えて納めている。
 記憶の中にある質流れで失った衣装からも、母の面影が偲ばれる。
 さまざまな思いを醸し出してくれる古箪笥である。