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随 筆 雨の日
              園山 多賀子 
 
                                                                            
                             島根日日新聞 平成15年6月25日掲載

 ふっと目覚めてカーテンを開けると、やっぱり雨だ。昨夜は雷鳴が耳について、眠れなかった。春雷と言えば何やら生暖かい感じではあるけれども。
 晴耕雨読。今日は雨読である。昨日は雨の予報が出ていたので、日没前まで草取りに大童だった。主治医から「もう老齢だから、長時間の作業は無理だ」と自覚を促すような口調でいつも言われていたのだが、私の気性としては、ついやり過ぎる。時々、反省をしながら、健康であることを過信して躓かないように心掛けてはいる。
 隣のおばあさんは私より若いが、手押し車で一日一回のウオーキングをしておられた。この頃はもうそれも出来なくなり、殆ど家に閉じ籠もっておられると聞いた。それに比べ、私は紫外線をほどよく浴びて、草取りも出来るということは幸せで、感謝することしきりだ。
 机上に置いていた原美代子さんの創作集「スプリング・エフェメラル」を開いて再読する。帯に書かれた「女性らしい感性のみずみずしさ溢れる珠玉の創作集」という言葉は内容にいかにもぴったりである。何回読んでも私の心を揺する。そんな彼女の人柄に魅せられ、いつでも手に取れるようにと、本棚に収めないで机上に置いている。 
 ぱっと開くと、『山椒の実』のことが書かれているページだった。読みながら、私の家にある山椒のことを思う。
 この間から後ろの崖に雑草が生い茂っていたのが、気掛かりだった。手の切れるような茅を刈るのは乱暴な作業だ。崖のところどころに山椒の木が自生しており、仄かな春の香りを放っている。だが、刺があるので、うっかり近付けない。この刺も木の自衛なのかと思うと、青葉を摘むのには抵抗がある。
 この季節、いつも作るのは「ちらし寿司」である。筍や蕗などの山菜を混ぜ、味付けしたご飯を盛った上から薄焼き玉子と刻んだ山椒を散らすのだ。
 主人はこの山椒の香りが気に召さず、結局、いつも主人の皿には載せなかった。旬の筍も朝掘りして茹でる。適当に切って山椒を擦り込んだ味噌で和える。『木の芽和え』が珍味である。しかし、主人の分は、山椒を入れない味噌和えだった。冷奴の上に載せる山椒も風情がある。こんな旬の味を好まなかった主人が気の毒である。「嫌いなものは嫌いだ」と言うに決まっているから、そっと触れないことにしていた。それぞれの嗜好も違うことだと諦めていたのだ。
「山椒は小粒でもピリリと辛い」という。主人の性格そのもののように思うけれども、世の中は矛盾することもあるらしい。
 私の家は山家のせいか、屋敷裏に山椒が自生している。秋に赤い実が付き、それが落ちて自生するのに土地が適しているらしい。墓参に来た人などがよく所望されることがある。俗言かもしれないが、昔から「山椒は盗んだものでないと根付かない」といわれている。掘ってあげる人に「これは盗んで来たからと言って植えて下さいネ」と笑いながら言ったこともある。
 とにかく山を背にして住んでいると、筍、蕗、山椒などの山菜には恵まれている。裏山には蕨も生えるけれども、最近は鹿が出没して野草を荒らすので金網が張り巡らされ、うっかり山へ入れなくなり蕨の味には遠ざかっている。
 こうした山の幸には恵まれているけれども、平成四年の大雨の時、崖崩れの難に遭ったのだ。危うく家も埋まりそうになり、崖を舗装してフェンスを張り巡らした。そのフェンスに時計草や朝顔を登らせて楽しんでいる。
「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」――山吹の黄色な花がフェンスを装い、独りの部屋の視野を飾ってくれる。
 こんなことを思う雨の日も、また楽しからずやである。


講師評

 作者の作品には、自分の家のこと、周辺にある花や草木のことがよく出てくる。随筆というのは、日常生活での経験、あるいは見聞したことから得られた感想や印象を素直に書いたものである。古来から随筆は、趣味や風流なことを書いたり、人生観を述べたりするという特色を持つ。
 この作品も、作者の人柄がにじみ出ており、物の見方や考え方のおもしろさがうかがえる。格別の山場というものはないが、その代わりに全体がよどみない文章で綴られている。
 去年の四月から見せてもらった作者の作品は、四十編に及ぶ。日常のさりげない情景が、短い文章の中によくまとめられているのである。