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小 説 成り成りて
         
山 根 芙美子  
                                                                                          島根日日新聞 平成15年7月30日掲載

 昭和二十年八月二十八日、南下してきたソ連軍が錦州市内に入ったとの情報が流れた。
 先頭の部隊は受刑者の集団で、途中略奪した腕時計を五個、六個と、毛むくじゃらの腕にはめて得意然とし、日が暮れると「マダム、マダム」と言いながらドアを叩き、女を漁るという。
 中国東北部遼寧省の省都奉天(現 瀋陽)と万里の長城の西端、山海関のちょうど中間にある錦州は、近くに炭田を控えた工業地帯でもあり、満鉄の錦州鉄道局があった。田舎の学校を出て、ここに職を得た美咲は半年足らずで終戦の詔勅を聞くことになった。
 女子寮で同室の先輩が、(現地の人々の態度が横柄になった。どうもおかしい)と言っていたが、日本敗戦の噂は早くから伝わっていたらしい。
 略奪、暴行は戦勝国の特権のように思われていた時代だから、いち早く女子寮は解散し、家族持ちの社員宅へ分散して同居することになった。まさかの時のため刃物が配られ、遺書も書いた。手回りのものをリュックに詰める。西日がかっと照りつけていた。
 社宅の周りは有刺鉄線が張られ、夜間には電流が通されていた。
 美咲が同居することになったKさんの家は、五年生を頭に六人の子供がいて、末は這い這いが出来るぐらいであった。他に青年二人、計十一人の大家族となった。おばさんと呼んでいたK夫人は、時を移さず頭は丸刈りにしていた。地味なもんぺ姿で九州人らしい、言うだけ言えば後のない気性であった。
 子供達は(美咲姉ちゃん)と呼び、おばさんは(美咲)と言った。
 Kさんは、結成されていた居留民会の仕事、青年達は軍の使役に駆り出され、家にいる事は少なかった。掃除、食事の仕度、子供達の着る物の洗濯や末の子に手がかかるので、おばさんを手伝う美咲も忙しかったが、子供達はKさんの言う事はよく聞いた。
 やがて八路軍が駐留し、治安はやや落ち着いた。八路軍は中共軍の総称で、正式には国民革命軍第八路軍であり、後に国民解放軍として全土を席巻するのである。
 町に住んでいたため逃げることが出来ず、押し入ってきたソ連兵を階下に待たせ、晴れ着に着替えて命を絶った友人の話も伝わってきた。女子寮でコックをしていた楊兄弟は、憧れて八路軍に志願し、厳格だった寮長の一人娘は慰安婦の仲間に入ったとか、奥地から逃れてきた人達の悲惨な有様もつぎつぎに耳に入るのだった。
 ある夕方、八路軍の将校三人がやってきて食事をした。宣撫工作だったのか、中の一人が外套の下から一本の老酒を出した。Kさん達は有り合わせのテーブルを継ぎ足し、家族と同じ物を並べた。ご馳走といえそうなものは何もなかったが、将校達は行儀良く、理不尽な振る舞いに及ぶものはいない。終戦までの長年月、絶対の権力者だった者に対する恐れもあったであろうが、堂々と向き合って遜色のない日本人の大人達を、美咲は立派だと思った。内地で叩き込まれた敵という観念が、油断するなという気持ちとは裏腹に薄れていったのも事実である。
 十月下旬、国民軍進駐の噂が流れ、男達は使役に駆り出されて、郊外に八路軍のための陣地が造られた。八路軍と蒋介石を総統とする国府軍との対戦は必至と思われていた。
 どんな形で巻き込まれるか分からない。
 十一月三日払暁、一発の銃声も聞こえないまま、八路軍は撤退し国府軍が進駐してきた。ソ連、八路、国府軍の間でどんな話し合いがあったのか、大金が動いたとも言われたが、女子供も出歩けるようになった。大道で商売をする者もいたり、子供達は手巻きの煙草を売った。
 K夫妻が生活苦を漏らすことはなかったが、秋の終りごろ、玄関に続くひと間を軍に貸すことになった。夜っぴて麻雀の牌の音がしたり、女を連れた将校が泊っていったりするようになった。
 ある朝、おばさんが言った。
「昨夜はね、四十あまりの将校だったけど、女の方がね、来るなり手をついて『初めてなのでどうしたらよいのか教えて下さい』って頭を下げるんだもの、弱ったね。聞けば美咲と同い年だって言うしね」
 その将校は、自分にも女の子がいる、とても抱く気にはなれないと、故郷の話をしただけだったそうである。
 筋向かいの社宅には同期入社のゆりえがいて、時々裏庭の垣根のほとりで話をした。女を連れて泊まるなど、上に立つ将校ともあろう者が、とてもけしからん、不潔のかたまりなどと勝手なことをしゃべり合っては、同居暮らしの不満を発散させていた。たまたま通りかかったおばさんが大声で言った。
「あんた達、学校で習わなかったかい、ほら、いざなぎ、いざなみのみことの話。(あが身は成り成りて成り合わざる処一処あり)(あが身は成り成りて成り余れる処一処あり、成り余れる処をもちて、なが身の成り合わざる処に刺し塞ぎてなんとか)あれは男と女のはじまりだよ。二人ともそんなことには関わらないでおくれ。日本の土を踏むまでは預かった私らの責任だからね」
 まくし立てるように言うと、目を丸くしている美咲とゆりえの前をさっと横切って裏口へ入っていった。
 二軒先の家には、夕方になると着飾って出かける女がいて、どういう訳か、家で一日中ごろごろしている姉夫婦を養っていると、ゆりえは言うのである。そして、
「やっぱりおかしい。不潔だよ」
 と、意味の通らない結論を下すと、もやもやしたものを振り払うように流行歌を口ずさむ。言葉にならないものがメロディに託されて、初冬の空気に溶け込む。(誰か故郷を思わざる)であった。
 二人とも十七歳になろうとしていた。
 高という青年将校が、女と少年を連れてくるようになったのは寒くなってからである。少年は玄関で帰り、翌朝また馬車を馭して迎えにやってくる。おばさんによると、女は高より少々年上に見えるそうである。
 二重ガラスの窓に氷の花が咲く氷点下の朝、女は一抱えの洗濯物を出し、今度来るまでに美咲に洗わせておくように、とおばさんに言った。すると高が強い口調で、
「未婚の女に、男の衣類を洗わせるなどもってのほかだ。自分の妹はフランスに留学中だが、そんなことをしたと聞けば哀しい」
 繰り返し言ったそうである。
 つい先頃迄、敵愾心を煽るような教育を当然としていた美咲の心中で何かが弾けた。戦勝国の軍人の中に紳士的心情の持ち主がいたことに心底驚き、不意打ちに合ったようなショックであった。
 祖母がフランス人で、長身、白皙、青みを帯びた目、髪は栗色で少しウエーヴがあり軍服がよく似合う。ほんの時たま顔が合えば、はにかんだような笑みを浮かべる。今まで経験したことのない何かが美咲の心に生まれようとしていた。
 おばさんは女からさりげなくいろんなことを聞き出す。
 将介石を総統とする国民政府の首都のある重慶で、女は雑貨を商っていたが、終戦のどさくさに夫をソ連へ送られ、一人いた子供も亡くして身も心もぼろぼろの時、高に出会い、ここ迄ついて来たのだと。
 ときどき歌っているのは(重慶の子守歌)なのだそうだ。
 長かった冬が終わる頃、軍の移動が囁かれ始めた。
 一日、風邪をひいて寝込んでいた美咲に、おばさんが言った。いつも高についてくる少年が会いたいと言ってきたが、風邪だというとこれを置いて帰った。移動が近いのでもう会えないとも言っていたと。
 名前はもとより、顔もうろ覚えの、もちろん話したこともない少年だけれど、せめて、「再見」ぐらいは言いたかったのにと悔やまれた。丁寧に包まれた新聞紙の中は、中国の菓子であった。子供達に分けながら、胸がつまって自分では口にすることができず、赤や青の色が潤んだ瞼にいつまでも残った。

 素手でドアに触れば貼りついて皮膚がはがれる、そんな寒さが遠のいて、大陸には黄砂の季節が近づいていた。
講師評
 戦後数年を経過した頃に、秘史や実録などを書いた記録文学と呼ばれるジャンルが台頭し、各種の雑誌においてもルポルタージュの特集が新しい流行となった。それらの記録文学やノンン・フィクションが読まれるようになったのは、長い間の戦争や社会の現実について知る自由が解放されたからである。
 この作品は、おそらく作者が遭遇したことと思われる事実を下敷きにして書かれたと思われる。もちろん、この作品は小説であり、事実の上に虚構が組み立てられている。その事実が確かなものとして書かれているから、二つの国のそれぞれの人達が遭遇し、揺れ動いた心情が、リアリティを携えて立ち上がるのである。
 小説はありのままを書くのでなく、虚構を使うもの、つまりは「作りもの」であると理解すると、作品の質は飛躍するはずである。