TOPページにもどる   ウエブ青藍トップにもどる

随 筆 言葉の重み
         
園山 多賀子  
                                                                                          島根日日新聞 平成15年8月5日掲載

 朝の六時。決まった時刻の起床が、私の習慣になっている。
 カーテンを開けてみると雨である。気になるほどの雨脚ではないけれども、まだ梅雨が上がらないのだと思う。仕方がない。今日の外での予定は、全部変更だ。
 机に向かったけれども落ち着かない。テレビの番組表を確認もせずに、いきなりチャンネルを回した。悪い癖だ。突然、出雲ケーブルの画面が出た。いつものことだが、地方ケーブル局のせいか、どうしてもリピートが多い。
 見ていると、番組の中に出てくる出雲弁での会話が何となく気になる。聞きづらいとでもいうのだろうか。とは言うものの、私は大正生まれで、出雲弁の中で育った。
 現在では、子供達もテレビなどの影響で標準語が多く、出雲弁は疎遠になった。けれども、老人の居る家庭では、子供達にからかわれながらも出雲弁が残されている。
 最近では、出雲弁保存会の会長、藤岡大拙氏によって、出雲弁が見直されてきたようだ。
 出雲言葉といえば、その筆頭にあげられるのが、「だんだん」である。聞き慣れない都会の人には通じない言葉だ。「晩じまして」は、すっかりとは暮れていない宵の口の挨拶である。「こんばんわ」より、時間的に早い時刻を意味している。私達には身についた言葉だが、都会の人には解せぬらしい。べったーべったー――毎度、どちはんじゃく――中途半端、よんべ――昨晩、ちょんぼし――少し、など、この地方の言葉で解りにくいのは枚挙にいとまがない。それはともかく、使い馴れた地方特有の言葉を見直し、後々まで残し伝えることは大事なことである。
 旅先で出雲弁を偶然に聞くことがある。望郷の思いが湧き上がり、その言葉を懐かしく感じた体験もある。古里との絆は言葉であり、それは温かいものだ。どこに居ても古里を恋い慕うのは、人間本来の運命かもしれない。もっとも、そんなことを考えるのは、歳のせいである。
 父の弟(亡き夫の叔父)が武蔵野音大を出て、音楽の道に進み、大連で音楽学校を開校していたことがある。満州国歌の作曲などで、名声を博していた。その細君は宮崎生まれで、生活習慣や言葉に出雲とは距離感を持っていた。ある時、その夫婦が会話の途中、叔母がお茶を入れるために席を立った。叔父がすかさず言った「逃げなくてもいい」という一言に、叔母はショックを受けたという。逃げる、という言葉の感覚が、宮崎のそれと違和感があったからである。
 辞書を繰ってみた。「逃げる」のところには、逃げ足、逃げ隠れる、逃げ口、逃げ口上、逃げ腰、逃げ回る、逃げ支度、など、いずれも穏やかならざる意味が書いてある。単にその場を離れるというくらいに使う出雲人の言葉が、誤解を招くのは当然だろう。しかし、そこは夫婦のことであり、お互いに納得して、めでたし、めでたしだったという。
 ――言葉は重い。無分別に口から出せば、言葉は重くなる。――と亡き夫は口癖のように言ったものだ。そんなに慎重に考えていたら、何も話せなくなるでしょう、と反発したこともあるが、それが今でも脳裡に残っているということは、良き戒めの言葉だからである。
 そんなことを思っているうちに、どうやら雨も止んだらしい。窓から見えるフェンスの時計草に、黄色のつがいの蝶が戯れているのが目に入った。
 雨の間、どこに潜んでいたのであろう。(あ! 黒揚羽の蝶も飛んでいる)――よく見ると一羽だけである。
 今朝は、雨のために日課の墓参を怠っていたことに気が付いた。これから花手桶を持ってお詣りして来よう。そう呟きながら庭に降りた。
 もう一羽の相手の蝶に会えるかもしれない。

講師評

 雨の日だった。作者はテレビを見ながら、毎日のように、なにげなく話し、聞き、また聞いたり、書いたりしている出雲の言葉を思う。そして、それは亡き夫の思い出につながった。窓からのぞくと雨は止み、一羽だけの黒揚羽が飛んでいる。再び、夫のことを思い出し、つがいの蝶に会えるかもしれないと期待しながら墓参りに行くことを思いつく。揚羽が夫と作者に重なりをもって書かれている。冒頭の雨は文末のそれと連動し、さりげなく書かれた夫婦の絆が秀逸で、うまい描写である。
 引用された「だんだん」は、「だんだんありがとう」の略で、近世後期から京の遊里で用いられた挨拶語だ、と大辞林にある。方言は文化の中心地の流行り言葉と言ってもいい。その地方の言葉は、地域の文化を背負っているのである。
 最近の日本語とその文章、文字の乱れはどう考えてもおかしい。衣食住さえあれば人は生きていくことが出来るが、それだけでは味気ない。自ら考え、他の人と語り合うために言葉や文字を大事にしたい。
 タイトルは作者の亡き夫の言葉だが、いかにも重く、大切なそれである。