TOPページにもどる   ウエブ青藍トップにもどる

随 筆 人生の美酒を飲む
         
坂 本 達 夫  
                                                                                          島根日日新聞 平成15年8月19日掲載

「お父さん、お世話になっていますから、僕から温泉行きをプレゼントします。」
 島根日日新聞の青藍≠読んだ次女の婿さんから、提案があった。『娘からの贈り物』という題で、長女が結婚したことで、何にも代
えることのできない素晴らしい感動をもらったことに感謝する文章を書いた。
 婿さんの提案を聞いた時、小さな驚きを覚えた。彼は今失業中である。温泉行きと聞き、玉造温泉での宴会等を思った。無理しなくても
いいから……と遠慮する気持ちが先に立つ。長女は長女、次女は次女で、普段十分いい思いをさせてもらっているからいいと断った。
「自分にできることをやりますから……。ぜひ一緒に温泉に行きましょう。」
 婿殿は笑いながら言う。湯の川温泉辺りで昼食ぐらいかなと思い、夫婦で行くことにした。
 夕方、次女夫婦と孫娘二人、私たち夫婦で温泉に向かう。なんと湯の川温泉と思っていたのに車は西に向かう。十五分走って、いちじく
温泉に到着した。入場料四百円を払ってもらった。
「ぼくにできるのは、このくらいですけん。」
 婿殿は、くったくなく笑う。なんだそうだったのかと、いつの間にか贅沢な望みを持っていた自分を反省する。三才の孫娘は、次女夫婦
に両方の手を引っ張ってもらってブランコし、私たち夫婦には、二才の孫娘がブランコされて風呂に行く。庶民的な幸福感に浸りながら風
呂で孫娘の面倒を見る。
「ビールぐらいはおごります。」
 風呂から上がると、婿殿は自動販売機で三百五十ミリリットルの缶ビールを出してくれた。温まった体に冷えた液体が、浸透していく。
これでは足りなく、今度は自分で五百ミリリットル缶を買った。玉造での宴会を想像した私の思いは遠くの空へ飛んで行った。
 ちょっと酔った私は、帰り道で娘夫婦に中華料理をおごってしまい、散々浪費した。親ばかだなあと苦笑した。
 長女が結婚して初めての父の日は、人生最高の日だった。長女夫婦は、私が気に入っていたドイツのワインをインターネットで取り寄せ
て送ってくれた。次女夫婦からは、熊本の本場の馬刺しが送られてきた。赤身肉で独特の味があり、霜降り肉より繊細な味でおいしかっ
た。
「お前もだいぶ肉の味がわかるようになったなあ。普通の人は、霜降りの馬刺しを選ぶのに、赤身を選ぶとは……」
 後で次女に、そう言った。
「あのね、霜降りは五千円、赤身は三千五百円だったから、安いほうにしたに。」
 次女の返事だった。それはどうでもいいことのように思えた。冷やしたドイツ白ワインを片手に、赤身の馬刺しを食べる。こんな父の日
は、初めてだった。面倒を見ることばかりだった子ども達もやっと一人前になり、父のことも考えてくれるまでに成長したんだなと感慨に
浸っていた。妻は自分の幸福感を点検していたが、急に何か足りないものがあるのを発見した。
「お父さん、何か足りんと思っていたら、まだA(大学生の息子)からはプレゼントがないがね。」
 大きな声で言いながら、すぐに受話器を取った。
「A、あんたね。今、父の日の晩餐を取っているけど、贈り物がないがね。あんたには一番金がかかっとるんだけんね。」
 厳しい檄が東京に飛んだ。
 かなり遅れて息子からのメロンが届いた。その味は覚えていない。殆どは妻に食われたのだから……。ま、妻の一撃でもらったものだか
ら、しょうがないけれど……。
今や日本では、親孝行という言葉が消えてしまった。昔話の「養老の滝」は、孝行息子が病気の父のために命がけで危険な冬山に入り、
酒を見つけたと語る。こんな話を身近に全く聞かなくなった。娘からの酒を飲んだ私には、養老の滝は作り話ではなく、息子が見つけてき
た酒は、どんな泥水であっても美酒であると言っているように思える。そこには、真心がある。
 私は、真心と言う言葉が好きである。日本の社会ではあまり聞くことがなくなった。親が子を、子が親を、互いに心から思い合いたいも
のだ。温泉行きで、娘達の真心を見た気がする。彼女達を育てて来た人生が、肯定されたような思いがして叫び出したいくらい嬉しい。そ
んなことを思いながら、ドイツワインを重ねると、透明な液体が、どんな高級なワインより高貴で芳醇なものとなって細胞の一つ一つを満
たして行く。
 頭がアルコールの酔いにぼやけていく時、人生の美酒を飲む、という言葉が確かに浮かんできた。

講師評

 昨年の九月、本紙に掲載された随筆「娘からの贈り物」に続く作品である。前作は、結婚披露宴でのお父さんとしてのスピーチ、それに
応えたお嬢さんから両親への、これまで育ててもらったことに対するお礼の言葉で構成され、作者は、その言葉に感動する。
 この作品でも、再びもらった子ども達からの贈り物で胸がいっぱいになったことが語られる。最後の段落で、それが凝縮され、人生の美
酒を飲んだ作者の思いが、そのままタイトルになっている。
 ユーモアやウイットとともに、書き手の人柄がにじみ出ている。だから、読み手はホッとする。よい随筆のひとつの条件でもある。