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随 筆 祭りの日
         
園 山 多賀子   
                                                                                 島根日日新聞 平成15年11月26日掲載

 十一月三日は、文化の日である。かつては明治節と言い、明治天皇の誕生日を国家の祝日として昭和二年に制定され、昭和四十八年に廃止された。それが文化の日として残ったのである。
 その十一月三日、夜来の雨は止んだものの、曇り空は晴れそうにもない。私の住む東林木地区の都我利神社例祭日である。もともと春祭りだったが、実りの秋がふさわしいということから、秋祭りに替わったのである。
 最近は、農家も専業ばかりでなく、勤め人が多い関係で祝日の休みの日が好いという事情から文化の日に決められたらしい。山も紅葉する好季、このまま続くことと思う。
 産土神は一般に氏神さまと呼ばれて、地区民に親しまれ、崇拝されている。出産、七五三、成人、結婚等々、総て神様に報告するのも習慣である。
 都我利神社は四三一号線、通称は湖北線と言って馴染まれているが、松江から大社に到る北山筋の道路である東林木の山手に向かって険しい階を登った位置にある。
 境内は椎の木が多く、椎の実や団栗が転がり、木洩れ陽を浴びながら階を登ったものである。まさに鎮守の森と言うに相応しく、静かで厳かなたたずまいである。
 元日には家族揃って、早朝六時、初詣でをするのが慣例である。亡夫は、いつも高い階を先頭に立って、休みなく一気に登り切ったものだ。それで自分の健康度を確認していたらしい。しかし、逝くなる一年位前から、この初詣では諦めた。
 初詣でに続いて節分が来る。家族の誕生日にも、お参りを欠かさなかった。だが、この頃は遙拝に止めているが、とにかく、氏神さまとの絆は大事にしたいものだ。
 昔はお祭りと言えば、招かざる客も来るというほど賑わった。お祭りには、お餅やご馳走にありつける。そんなグルメの楽しみもあった。今では刺身も茶碗蒸しも毎日というような、よき時代となった。感謝を忘れた飽食の時代である。祭りの魅力など忘れられた。泊り客などある筈もない。自然の流れとは言うものの、時代の変遷に驚くことが多い。
 祭りの日、午前中には番内が村中を廻って歩く。きんきらの衣装に面をかぶり、身長に余るほどの青竹を割ったものを振り回し、悪魔払いをするのだ。家々では酒を振るまう。番内が面の下から酒を飲むのも面白い。ウォーウォーと叫びながら、子供達を面白がって追いかける。
 東林木は九町内あり、順番に神様の出張なされる当屋がある。昔は、当屋仲間と言って、限られた家が順番に当たったものであるが、この頃は、そんな旧態はなくなり、一般家庭が当たることになった。
 午後三時頃、当屋からお練りが出発する。地区中を廻るのだ。戦後からは、子供御輿も始まり、行列も賑やかになった。番内は、もちろん先祓いである。それに、茶立て婆、と言うのだが、派手な襦袢におかめの面をかぶり、茶碗を持って、お茶を振るまう仕草をして廻る古い習慣も続いている。時代や地区の事情が変わっても、こうした伝統的行事は、いつまでも続いて欲しいと願う。

講師評

 各地区には古くから多くの祭祀があり、それぞれが、いわゆる生きた歴史である。特に、神事、祭礼などは、非常に貴重な歴史的価値を持っているものが多い。
 だが、生活のありようが変わっていくと、いろいろな事情がからんで、年中行事、民俗芸能、信仰などが、少しずつ形を変え、また、失われていく。
 作者は自分の住む東林木の祭りの様子などを素材にし、消えていくものを残したいという趣旨でこの作品を書いた。
 正月行事や祭りは、地域によってかなりな違いがある。いかに小さなことでも、それらが書かれたものは大切な記録のひとつとなる。そうであれば、全く知らない人にも様子がよく分かるように書くことが必要ではないかと思う。