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随 筆 新年に想う
         
園 山 多賀子   
                                                                                 島根日日新聞 平成16年1月1日掲載

 新しい年が来た。私にとって、九十二回目のお正月である。
 年の暮れには、お正月の準備をした。
 お鏡のお供えを三宝に、裏山から取って来た裏白(うらじろ)、)、そして白米を紙に包んで、海草の「じんば」で結んだものを上に載せる。床には、天照大神の軸を掛け、松竹梅も活ける。脇床には恵比寿様、仏前、神棚にも、それぞれに合ったお鏡を供えた。これで準備完了である。私の家の慣わしとして受け継がれて来たことだ。
 こうしたお飾りは、家長が風呂に入り身を清めてから全て準備にかかる。女はおせち作りで、夜遅くまで厨房に立った。昔はガスなどという便利なものはなく、従って作業は捗らなかった。豪華にはならないけれども、主婦の知恵を駆使して身近な大根、甘藷、人参など、畑の産物で料理を工夫した。
 出来上がると、お重に詰める。一の重は、縁起物の黒豆、数の子、田作りである。二の重は、きんとん、栗の代わりにレーズン、リンゴなども加え、我が家独特の味を出した。さらには、紅白膾(なます)、蓮根(れんこん)などがある。三の重は、主として煮物であり、昆布巻も貴重な味。筍、蕗(ふき)などは塩漬けにして保存した自家製。捻り蒟蒻(こんにゃく)、椎茸(しいたけ)、干瓢(かんぴょう)、玉子焼き、紅白蒲鉾(かまぼこ)などを彩りよく盛り合わせる。これだけにも、かなりな時間を要したものだ。だが、今ではスーパーでの「おせち」に、ウン万円も出せば間に合う時代となった。材料を買い集めて手間を掛けるよりも、簡単だから人気があるらしい。しかし、本当はそれだけでは、補いが出来ないのだ。客が多いと困るのではないか。だが、現在は長居をするお客もなく、おおむね日を決めて一度に終わってしまう。時代の移りを思う。私の家は、亡夫も独り子で弟や妹もない。親戚も少なく、遠くに嫁いだ娘はめったに帰らず、孫が子供を連れて賑やかに来るだけである。
 それはともかく、晦日は蕎麦を食べて除夜の鐘を聴く。つつがなく年越しとなる。
 元旦の朝は、まず家族全員で初詣に出掛ける。亡夫も一年前までは参加していた。先頭に立って、鎮守の森の階(きざはし)を上り、健康度を確かめたものである。帰り道には、お墓に詣でる。
 帰って来ると、まずはお屠蘇。徳利を二つ繋いだ特殊な器にお屠蘇が入れてあり、傾けて注ぐとヒューヒューと音が出る変わったものを昔から用いている。お雑煮は、平餅(ひらもち)が二個である。海苔を乗せただけのさっぱりしたもので、野菜などは全く入れない。これも我が家に続く古くからの食の掟である。小皿には黒豆と田作りがあるだけの簡素なものだ。
 三ヶ日が過ぎ、七日は七草粥なる。せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ――これで七草。今ではスーパーで揃えたものが売ってあるらしい。けれども、私の家では、すずしろは大根、すずなは蕪(かぶ)にする。せりは川辺にあるから手に入り易い。こうして、身近な三草を入れた粥を作ることにしている。
 私の幼い頃のことである。七草粥を皿に入れて手に持ち、庭先に出て柿の木に向かい、父がナタを振り上げる。「なるかならんか、ならねば胴切って捨ててやる」と大声で言いながら、木の幹目がけて切り付ける。私が傍らで「なります、なります」と呼応する。傷付けた場所に、父がお粥を含ませる。そんなしきたりも思い出す。
 十四日は「とんどさん」である。近所の男の人が、各家を廻って竹や藁を集め、空き地に「とんど」を作る。夕刻になると、大勢の大人や子供が集まって来る。まずお神酒を頂いて、続いて火が付けられる。持ち出した正月のしめ飾りなどを火の中に投げ入れる。お餅を焼く。その焦げた餅を持って帰って食べると風邪を引かないのである。書き初めを竹の先に付けて投げ上げて、高く上がれば習字の腕が上がると、子供達は意気込む。
  ――とんどの火 風邪の子も出て手をかざす(多賀子)――
 正月に先だって、十二月の亥の日は「亥の子さん」の行事があった。子供達が集まって、石臼に縄を数本結び付け、手に手にその縄を持って、「亥の子さんの晩に祝わぬ者は、蛇産め、子産め、角の生えた子産め」と、囃し立てながら息を合わせて引っ張り上げて、どんと下ろす。それを繰り返すのだ。今の子供達は塾などで忙しいのか、そんな暇はないらしい。私達の良き時代の思い出である。
 古い記憶を偲んで語り合う人も少なくなった。せめてペンに託して、その灯りの消えないうちに、我が家の孫達に残しておきたいと、お正月に思う。