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随 筆 風に立つ
         
柳 楽 文 子   
                                                                                 島根日日新聞 平成16年1月7日掲載

 前向きに、積極的に生きようとする気持ちが、少しばかりしてきた。
 向かい風が強ければ、両足をグンと踏ん張り、負けるものかと立ち向かう。
 雨が突然降り出せば、そのまま濡れるのも一興というものではなかろうか。うろたえるな。いつまでも振り続ける雨など決してない。
 茨の道でも決してひるむな。踏み付けて痛ければ、まだ血の通った人間である証だ。
 心身の調子の良い時は、こんなことを平気で考える。
 自分自身のことながら、突拍子もないことを平然と思ってしまう。
 精神を少しばかり病んだからと言って、クヨクヨすることは毛頭ない。
 私には大勢の応援団がいる。団長を務めてくれている主治医の宮岡先生をはじめ、家族、親友たちがいる。
 宮岡先生はとことん優しい。時にはハットする宝物のような言葉を下さる。前回診察に行った時、「自分を見失うということは皆を裏切ることになるから気を付けて」と、言葉を掛けてもらった。
 何度も見失いかけ、命の安売りをしようとしたことが幾度もあった。先生の言葉は光り輝いて、私の胸に吸い込まれていった。
 心を病むと何もかも不透明になってしまいがちだ。そしてその状況に恐れおののき、自分の存在すら否定しがちになる。
 私が直面する現実は、勇気を持って受け止めるところから始めなければならない。
 疑うことを決して恐れることなく、反対に軽々しく信じることもせず不透明さのままでも、ある程度受け入れてもいいと思えるようになった。
 すわり心地の悪さに、少しでも痛みが感じられることが、病と同居することなのだと今頃思うようになった。
 自分の病の分析が冷静に出来るようになってきたと言うことは、病のほうが悪戯心を出さないようになってきてくれたのかも知れない。
 三年間キリスト教会に通ったことがある。その時、神父さんの言葉の中に、印象深く受け止めた一節があった。
「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門を叩きなさい、そうすれば開かれる」
 私はこの言葉を信じ続けて六年間頑張った。
 この一節の通り実行した。
 人は誰も少々心に問題を抱え苦しんでいても、好き好んで精神科になど喜んでなど行かない。
 うつ病になるのは、少しひどい心の風邪に罹ったと思うことにしている。
 治してくれる医者を求め続けた。そして宮岡先生に出会えた。
 いろいろな治療法を先生と一体になり求めた。
 辛く苦しい時、遠慮なく先生に助けを求めた。嫌な顔一つしないで話を聞いてもらい、固く閉じた心を開いてくれた。
 他人と違うことに恐れてはならない。自分をかたくなに隠すことは、何一つの得にもならない。人の思惑に動ずること無く自分の内面を、曝け出す勇気が私にはあった。人と違っていて当たり前だ。違っているからこそ、考えもつかぬドラマが生まれこの世は成り立っている。
 世間の顔色に振り回されて、何を得ようというのか。
 心の病を体験し、様々な人や物に、私なりの光を当てることが出来たことは、大きな財産となって心の中に蓄積されている。
 今、日本には飢えて死ぬ人間はそういない。内紛で多くの人が殺傷される危険もない。そのことがどんなに価値のある大事なことか、一人一人感謝しなければならない。
 私は幸いにも今日一日、目も見え、人の話が聞こえ、電話で話ができ、ご飯も自由に手を使い食べられた。行きたい所へ足を使い不自由なく用が出来た。
 自分のありように感謝しなければと今日一日考えて生きた。
 向かい風は私を強くしてくれる大事な風だろう。

講師評

 作者は、自分の病に正面から向き合おうとしている。その思いを心に浮かぶままに書いた。言葉に何の飾りも付けず、正直に心を書くのである。それが良い文章を生み出す。
 文章を書くということは、何かを表現したいからである。それは、ほぼ間違いなく読み手に伝わるが、それだけではない。書き手の人間そのもの、在りようもである。
 優れた文章というものは、美辞麗句がちりばめられたものではないと思う。作者の言いたい内容が、素直に読み手に受け入れられるようなそれである。作者と共に読み手が喜び、苦悩し、共感する文章でありたい。この作品にはそれがある。