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随 筆 五線譜をたどる
         
園 山 多賀子   
                                                                                 島根日日新聞 平成16年1月14日掲載

 趣味のグループの三浦さんから、『満州唱歌よ、もう一度』という分厚い本が手渡された。帯には「故郷を想う歌、甦るあのとき」元大連に在住していた友達から託されたものであるという。新聞に連載された『わたしと満州唱歌』から生まれた待望の一冊!」とある。
――戦争の激化と共に、満州の教育は徐々にその独自性を失い、満州唱歌が歌われた期間は、僅か二十年前後に過ぎない。期間は短くとも、それは満州という土地と教育者が生んだひとつの文化であった。その歌は、満州で育った人の心の中に懐かしい思い出や風景と共に深く刻み込まれている。異郷に暮らす日本人として、満州唱歌が心の拠り所だったと言う人もいる。そして、帰る故郷を失った今では、それに寄せる思いは一層深い。
 戦後、もはや六十年近い歳月が流れ、同窓会などで歌い継がれて来たが、唱歌を知る人達の高齢化が進み、しっかりとした形での記録資料も少ない。また、度を過ぎた自虐史観に支配されていた戦後の教育のために、満州や満州唱歌のことを自ら封印してしまった人もあり、幻の歌となりつつあった。
 私は、満州唱歌を忘却の彼方へと追いやってはならないと思った。さまざまな人達の思いが込められた歌の数々を次代へ伝いたい……。そんな思いで、満州唱歌の源流をたどる取材を始めた待望の一冊である。――と、喜多由浩氏の序文にある。
 満州唱歌と聞いて閃くのは、主人の叔父「園山民平」のことだ。園山民平は、私の家である園山家四代熊市とクラの間に、次男(長男良之助は、主人の父)として生を受け、志を立て東京音楽学校(現東京芸大)でピアノと作曲を習得後、宮崎の女学校で勤務した。そして、彼地で結婚、伯母と結ばれた。叔父は、小柄な父と対照的に体も肥ってボリュームがあった。
 大正十一年、叔父は南満州教育会教科書編集部へ派遣されて渡満した。
 満州は内地より教育や生活のレベルも高かった。しかし、叔父は満州に住む子ども達のためには、やはり郷土に適した歌材が必要で、そのためには満州の地に融け込んで作曲しなくてはと、精力的に満州各地を回り、現地の教師の意見を聞いたり、土地のメロディー探譜を行い、それを参考にしながら数多くの満州唱歌を作曲した。「満州国歌」は、高津敏との合作と聞いているが、「娘々(にゃんにゃん)祭」、「あしおどり」、「星が浦」などは叔父の代表作である。満州の学校の校歌、寮歌などのほとんどは、叔父の手が掛かったものばかりである。
 大連の音楽学校を主宰し、当時、百人を超す生徒がレッスンを受けに来ていた。女学生にも人気があり、丸顔に眼鏡を掛けていた。怒った顔は、見たことがない。生徒達からは、『民平節』と呼ばれて親しまれていたらしい。
 こうして内地では「山田耕筰」、満州では「園山民平」と言われる程、名声を博した。まさに満州音楽界の一人者であった。しかし、家庭的には、二男二女に恵まれていたが、長男も長女も早世し、次いで次女も逝き、残ったのは次男の謙二だけとなった。この次男も戦争に駆り出された。当時、叔父の籍は生家の林木、私の家にあってそこから出征した。内地の因島で音感教育に当たり、職業上、戦地には赴かずに終戦となった。私の家に復員し、やがて両親も引き揚げて来たので宮崎に移り住んだ。
 父、即ち、民平の兄である良之助は教員で、若くして周辺の小学校長を勤めていた。何年か私の聞いた記憶にはないが、叔父の後を追って大連に渡り、教育界に入った。次いで、主人も内地の学校を終えると、これも父の跡を追うように大連に渡り、商業高校に在籍した。そのうちに縁あって、昭和十二年早春、私と結婚した。大連で十八年まで暮らし、叔父との交誼も深く、よく家に訪れたものである。主人は長男であったが、運強く終戦前に帰郷し、教職に就いた。私も畑作りなどをして家を守り、三人の子供も成長した。
 叔父は終戦後に引き揚げ、伯母の郷里の宮崎での生活を取り戻した。昭和二十二年三月であった。宮崎音楽協会や宮崎管弦楽団などを立ち上げ、指導に当たっていた。また、満州時代と同じように、重い録音機を担いで各地を回り、二百曲以上の民謡を採譜したという。こうして宮崎で地元の音楽振興に力を尽くし、二十六年には第二回県文化賞を贈られている。三十年一月に六十八歳で亡くなったが、県音楽協会により音楽葬が営まれた。
 老境に入った満州生まれの人達の心の中で満州唱歌は、生き続けていることだろう。
 叔父が住んでいた大陸の南山麓にある鏡の池の周辺、アカシアの白い花に重なって、叔父の温顔を思い出す。

 大正の終わりから昭和にかけて、園山民平氏などに代表される満州在住の音楽家によって作られた満州唱歌があった。「こうりゃん」、「ペチカ」など満州の土地の匂いあふれる唱歌である。その内の「満州唱歌」は、現在の中国東北部である満州(旧国名)に住んでいた日本人の間で歌われた幻の唱歌で、「満洲唱歌集」は、副読本のひとつだった。だが、当時の国情等から、しだいに日本国内で歌われていた文部省唱歌がそれに代わる。そして戦後、満州唱歌は公の場から殆ど姿を消すのである。
 昭和二十二年、民平氏は引き揚げる。そして、音楽によって人々に安らぎを与え、この作品にあるように宮崎で情操教育や後継者の育成という質の高い活動をする。特に、民謡を採譜した『日向民謡101曲集』は、大きな文化遺産となった。
 昨年の十一月、産経新聞に連載された満州唱歌のエピソード、思い出などを一冊の本にした『満州唱歌よ、もう一度』が出版された。
 出雲出身の園山民平氏について、そのゆかりの方から、業績が作品として残されることは意義のあることと思う。