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随 筆 哀しい下着 
  
         大田 静間   
                                                                                 島根日日新聞 平成16年4月7日掲載

 ひと昔前まで、女性の下着売り場の陳列場所には、男性が足を踏み入れることの出来ない暗黙の距離が存在していたように思う。それは、男性にとって蠱惑の空間距離であり、女性には異性の好奇の目を避ける安全圏の役割を果たしていたのである。
 だが、いつの頃からか、どこの衣料品売り場も申し合わせたように、その陳列を正面、と言うよりも、いわば表通りに移動させてしまった。
 妻と一緒にスーパーの売り場を巡っていた時である。魅惑的な下着を装着させたマネキンに行き当たった。レースを施した艶めかしい下着が、青白い照明のボディに食い込んでいる。それを目にした時、なぜか不意に半世紀も昔の、ある記憶が鮮明に蘇った。

 小学校の二年生か三年生であったと思うから、昭和二十二年か三年頃のはずである。
 戦後の復興途上期で、だれもが一様にどん底の生活であった。食べ物は、もちろん十分にはない。だから、学校では弁当の盗難が頻発していた。人の物を盗むのは悪いということが分かっている。だが、背に腹は代えられないということだ。着ている制服にいたっては名ばかりで、桑の木の皮で紡いだ布で出来ていた洋服だった。大人と言わず子どもも、それこそなりふり構わず生きていた時代であったのだ。
 当時は、どこの学校でも始業前に朝礼があった。全児童が校庭に集められ、校長先生の訓話を聴くことから一日が始まった。
 その日は、なぜか校長先生の登壇が遅く、私達は一度整列した後、腰を下ろして待つことになった。
 今でも運動会の出番を待つ子ども達が、両膝を抱えて腰を下ろすあの姿勢である。
 私は、最前列に座っていた。先生方は対面して、私達の前に同じような姿勢でしゃがんでおられた。男の先生はズボン、女の先生はほとんどがモンペだった。ひとり、スカートの先生がおられた。若かったから、多分、独身であったと思う。
 突然、校庭に春の突風が舞った。
 いきなり、その女先生のスカートが持ち上がった。私の目に飛び込んで来たのは、ズロースである。今で言うパンティである。清楚なそれだったが、哀しいズロースだった。太股を覆う純白の布に、幾つかの継ぎ当て跡が、私の瞼に強烈に焼き付いたのだ。
 間髪を入れず、先生は立ち上がられた。
 思わず顔を上げて先生を見た私の目に、上気した頬を両手で押さえている先生の姿が映った。清楚で哀しいパンティを私は見てしまったのだ。太股の辺りに継ぎのある跡を。
 顔を上げた私の目に、上気した頬を両手で押さえている先生の姿が映り、息を呑んだ。
 絶対の存在である先生の哀しい現実を知ってしまった。そして、事もあろうに、先生の露わな肢体までも……。
 起きた事態は偶発的なものであり、当然、私が見ようする意志が働いたものではない。だが、私の目は先生の尊厳を傷つけたのだ。
 確かに、春の風が起こした突発的なことではあったが、私は加害者の意識に苛まれた。辺りを見回したが、この一瞬の出来事に誰も気が付いてはいないようだった。
 その後、私は白く弾んだ下肢の残像に悩まされることになった。
 学校で先生の姿を見ればもちろんのこと、遊んでいても、私の心の隙間を縫って執拗に心の中に現れ続けたのである。

 あれから五十年が経過した。その間に織りなされた多くの記憶は、フィルターにかけられて大半は消滅した。
 多感な少年期に私の目が捉えた映像が時空を透過して、青白い光を放つマネキンに重なっていた。立ち止まった私に、数人の客が不審そうな視線を送ってくる。
 私は、素知らぬ顔で妻の後を追った。

◇作品を読んで

 作者はスーパーの衣料品売り場を歩いていて、子どもの頃のことを思い出した。男なら、普段は通り過ぎてしまう場所である。たまたま家族と一緒だったこともあり、マネキンの前で立ち止まり、幼かった頃に見た光景を重ねた。
 モノクロになっていた記憶が、明るい売り場の中で鮮やかな色合いをもって浮かび上がり、それを書き留めることにした。
 なにげない日常の中で、思いがけず現れた断面がこの文章で更に甦ったということになるだろう。作者は、三度、四度と書き直した。そして、選ばれた言葉が残った。
 作品にある通り、戦後の日本は貧しかった。今では想像も出来ない時代だが、六十代以降の人なら、何かの形で戦後の暮らしを記憶しているのではないだろうか。