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随 筆 あなたに届けたくて
  
         三 島 操 子   
                                                                                 島根日日新聞 平成16年5月13日掲載

 次女の暮らす名古屋から帰り、二日も経ってのに、耳の近くで人のざわめきが未だこびりついている。
 今朝もコーヒーを沸かしながら、朝ご飯をきちんと食べたかな、と娘のことを思っている。
 例年だと今の時期、食卓に乗せることが出来るのに、今年はやっと五本ほど二十センチばかりのタケノコを見つけることが出来た。母に急かされ急かされ米のとぎ汁の中に入れ、火をつけた。
 長年家事は母の仕事だったが、十二月に退職した今は私の仕事になっている。
 退職してみると、毎日の単調で緊張感のない生活と、行き場の無い閉塞感から、名古屋に住む娘に電話する回数は増えていたところへ、その当人の娘から誘いがあり名古屋に行くことにした。
 駅へ迎えに来てくれた娘は黒のパンツにスニーカー、頭の後ろを髪留めで押さえている。夕方の人混みの中をすり抜けるように歩く娘の背中を追いながら、私は仕事をしていたときの感覚を思い出していた。
 マンションは大通りに面した場所にあった。マンションを見上げていると、早く、と言う。背中を押され中に入る。自動的に外鍵が掛かった。防犯のためだ。
「知らない人が一緒に入らないように、外鍵を開けたら直ぐ中に入るのよ」
 エレベーターホールに取り付けられた防犯カメラのレンズに映る歪んだ自分の姿を見つめた。
 娘の部屋は、ソファ―の横に冷蔵庫、いつもかけてくる電話は、専門書の並ぶ本棚のわずかなスペースにおさまっている。机の上には、娘が高校一年の時、友達から貰い、飼っていた猫のハナが、写真立ての中から少し眠たそうな目でこちらを見ている。
就職してからめったに帰らなくなった娘のベッドの上にハナは丸く自分の形を残し、季節が秋から冬に変わる頃、出掛けたきり帰ってこなかった。そのことを知らせたら、(そう……)と、一言しか言わない電話の向こうの声に、胸の辺りが重くなったことを思い出した。
 きちんと整理された部屋で、娘の帰りを待つハナの写真に、元気でやっているよ、としか言わない娘の生活を覗き見た気がした。
「狭いから必要な物しか買わないことにしているのよ」
 コーヒ―をテーブルに置いた娘の頬の辺りがほっそりして見える。
 少し薄暗くなってきた部屋にコーヒーの上品な香りが漂う。
 照明のスイッチに手を伸ばした。
「帰って直ぐには、点けないことにしているの」
「えっ、なんでなの?」
「どこからか見られていて、すぐに部屋の明かりがついたら、どの部屋に住んでいるか分かってしまうでしょ」
 都会に住んでいると、そこまで考えるのかと、妙なところで感心した。私の経験したことのない生活をしている娘がいる。
娘が中学三年の時だった。自分の仕事の忙しさに、親子面談の日を忘れてしまったことがある。
「先生は、お母さんの時間に合わせてくれているのに」
 泣きながら抗議したのを境に、高校、大学、就職と娘の進む道はいつも事後承諾になった。心配ひとつ掛けることなく、私が仕事に専念できる環境を与えてくれた代わりに、当てにされない寂しさもあった。だが、仕事の面白さにいつしか忘れてしまった。
「私もう、二十九になるのよ。健康管理は大切――」
 コーヒーカップの向こうにある瞳が照れて笑っている。どうみても二十四、五歳にしか見えない。私は、その歳に母親だった。娘は、自分を保育所に預けて働く母親にあまり病気もせず、協力してくれた。
「今年、もう一回だけ一級建築士の試験を受けようと思ってね……」
 また受験すると言う。今度こそはというつもりなのだろう。
「でもね、ちがう道も……」
「私をきちんと理解してくれて、結婚しても仕事が続けられ、同じ価値観を持っている人になかなか会えないね……」
 でも――と言いかけた私の目を覗き込むようにして、首をすくめている。
 母親の心の中をそろりとつま先で歩くような、さり気ない言葉だ。その奥に、生真面目だが要領が悪く、しかし粘り強く前を向いて行こうとする姿勢がうかがえる。それを認めてくれる唯一の人に巡り会いたいと思っている素直な娘の心根を見たように思う。
「おばあちゃんと仲良くやっている? 野菜作りを教えてもらいなさいね。送ってもらう野菜は美味しいから」
 両手で包むようにしているカップから、穏やかな陽気が立ち上がっている。
「お父さん……田圃できるかな?」
 昨年、定年退職をし、慣れない農業に挑戦している父親の心配をしている。娘の少し細くなった頬のあたりを気にして聞くと、クスッと目元だけで笑ってみせる娘を見て気がついた。
 社会人として認められ、母の役は与えられたが、親業としての時間が少なすぎたことを。娘は心の中を何回母親に見せたことがあるだろうか。子どものことを知らない母親という肩書きだけの私がここにいる。
タケノコが茹であがった、直ぐ水につけアク出しをするようにと、母の声がする。
 きちんと磨かれた娘の台所の赤い鍋が、目の奥に浮かんだ。
 タケノコにレシピと手紙を添えて、娘に送ろう。
 もっと沢山の時間をあなたと過ごしたい母の私がここにおり、経験してきたことをあなたに聞いて欲しいと願っていること、もっともっと沢山のものをあなたに受け取ってほしいと願っていることを書いて……。

◇作品を読んで

 ある日、作者は故郷から遠く離れた都会で暮らす娘を訪ねた。マンションで独り暮らしをするためには、地方に住む者にとっては考えられないほどの防犯に配慮しなければならない。作者は、そのことにまず驚き、しっかりとした考えを持って生活している娘を知って安堵する。だが、子どもを持つ親が誰でもそうであるように、結婚はどうするの? と聞く。娘はそのことよりも、古里の家族の心配をしていた。淡々と語られる娘とのやりとりや親子の思いが、無駄のない文で的確に綴られている。
 題名からも、ほのぼのとした親子の情感が伝わる。
 この作品は少なくとも四度は書き直された。推敲し、修正していくたびに洗練されてきたが、これで完成しているというわけではない。だが、文章が出来上がっていく過程を作者は楽しむことができたのではないだろうか。