エースの鐘は2度鳴り響く  桑田真澄

 エースという言葉ほど、脆さという言葉と表裏一体であり、
  一瞬の輝きを感じさせる言葉はない。
  めざましい成績を残し、人気・実力ともにエースと呼ばれ始めた投手が、
  名実ともにエースと呼ばれ続けたまま投手としての生涯に幕を降ろした前例は皆無に等しい。
  どんな投手でも、年齢からくる衰えや故障といった理由から満足のいく成績が残せなくなり、
  若く活きのいい投手にその称号を奪われ、引退していく。
  ガラスのエースと言われた元・中日ドラゴンズの今中慎二。
  投球芸術と言われた元・オリックスブルーウェーブの星野伸之など、
  例を挙げれば数限りない。
  エースと言われた投手が、例外なくその例に含まれているのだから。
  読売ジャイアンツ、桑田真澄。
  彼もその1人だった。
  
  桑田と言えば針の穴を通すコントロールで有名だが、
  それは和製マダックスの異名を取る元ニューヨークメッツの小宮山悟、
  ミスターコントロールと呼ばれる西武ライオンズの守護神・豊田清らと比べても勝るとも劣らない。
  そのことを示す事実が1つある。
  
  「桑田は満塁ホームランを打たれたことがない」
  
 これは驚くべきことである。あの斎藤雅樹でも槙原寛己でも(元巨人)、
  斎藤隆(横浜)大野豊(元広島)、ストッパーの高津臣吾(ヤクルト)でも、
  無論のこと小宮山も豊田もプロ野球の投手として満塁ホームランを打たれている。
  この事実が示すことは、桑田はどんな追い詰められた場面でも冷静に自分を見つめ、
  落ち着いた投球ができ、なお自分のコントロールに絶対の自信があるのだ。
  
  しかし、その桑田が決定的にコントロールを狂わせた場面を
  記憶に残しているプロ野球ファンは多いはずだ。
  95年4月4日の東京ドームでのヤクルト戦。
  桑田が9回表無死からヤクルト・飯田哲也中堅手に対して投げた141kmのシュートは
  飯田の頭部を直撃し、球審・井野修は桑田に対して、危険球での退場処分を与えている。
  その後ヤクルト打線は5点を奪い、見事な逆転勝ち。
  当時ヤクルトの監督をしていた野村克也氏が
  「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」と語ったのは有名である。
    
 運命とはそういうものだ。運命と言う以外、どうしようもないではないか。
  そんなことを感じさせるシーンだった。

 現在の読売ジャイアンツのエースは?という質問があるとするなら、
  その過半数が上原浩治という投手に集約されるであろうことは想像に難くない。
  99年にデビューと同時に20勝をあげ、02年となる咋季においても17勝をあげた雑草魂は、
  ミスター完投と言われた斎藤雅樹とダブるものがある。
  ルーキーイヤーに松井秀喜とロベルト・ペタジーニの本塁打王争いに巻き込まれて
  マウンド上で流した熱い涙は多くの野球ファンの心を揺さぶり、
  また00年、01年の不調を乗り越えた今は名実ともに球界のエースへと成長しつつある。
  
  02年の開幕戦を投げたのは当然の如く若きエース、上原。
  それに対して桑田の02年のシーズンは先発6番手からのスタートだった。
  開幕時のジャイアンツの先発ローテーションは上原、工藤、入来、ワズディン、高橋尚、桑田の順で、
  必然的に桑田の02年の初登板は開幕6戦目の4月5日、対横浜戦となった。
  ここ2年間は中継ぎに回り、それでも納得のいく成績があげられないでいた桑田にはそれでも過分だ、
  というのがマスコミの評価だった。
  この日の桑田の成績は6回を投げて失点3(自責点1)の黒星スタート。
  翌日、桑田は1軍選手登録を抹消された。
 
  先発6番手の投手にはよくあることではあった。
  雨天中止の場合に、その日に登板予定だった主力投手が翌日または翌々日にスライド登板したり、
  またはもともと翌週に5試合しかゲームが組まれていない場合には、
  6番目の投手を1軍選手登録から抹消(再登録には10日を要する)し、
  中継ぎの投手を2軍から補充する。
  ムリに6番目の投手に中継ぎに回ってもらうよりも、
  下(2軍)で少なくとも2週間後の登板に向けて調整してもらう。
  分業制の進んだ昨今の野球ではそう珍しくもない。
  そのため6番目の先発投手のことは谷間と呼ばれる。
  先発ローテーションの日程的な穴(谷間)を埋める投手。
  桑田に与えられた役割だった。

 4月19日、甲子園での対阪神戦。
  2週間ぶりに桑田に用意されたマウンドは阪神タイガースの若きエース、井川との対決のマウンドだった。
  この試合で桑田は驚異的な集中力を見せる。
  終わってみれば奪三振は8。02年シーズンを通して最高の数字だった。
  勝負球に投げ込まれた140kmカツカツのストレートは外角低目の一点を突き通す。
  バッターはその気迫に押されたのか手を出すことができない。
  それこそ、私が少年の頃にはいつもブラウン管を通して私の魂を震え上がらせていた
  最高のストレートだった。
  桑田のダイナミックかつ美しい投球フォームは急速に輝きを増す。
  実況をするアナウンサーが桑田のフォームについて今季から改造されましたねと触れると、
  私は思わずテレビの前で「去年の夏からだよ」と微笑みを浮かべたまま独り言を言ってしまっていた。
  
  01年、ヤクルトが優勝を飾ったこの年、終盤になってヤクルトの前に立ちはだかったのが
  2軍で調整していたベテランの桑田と斎藤の2人だった。
  最後の最後でヤクルトに3連戦3連勝し、もう2勝すればプレーオフというところまで
  追い詰めたことに桑田の3連投があったことは記憶に新しい。
  桑田の復活はすでにそのとき予見されていたということはできる。
  だが想像以上の姿だった。
  
  試合は9回まで両チームのスコアボードにはゼロが並び、10回の表、福井の一発で試合は決着する。
  9回4安打無失点の力投だった。
 
  桑田の好投は続いた。
  勝利に結びつくことは少なく自身の勝敗は負けが先行したが、
  5月下旬には調子を崩していた高橋尚に代わり先発5番手に浮上する。
  さらにその後、不調に加え故障を訴えるワズディン、
  先発投手の軸として活躍を期待された入来らが離脱していく。
  そんな中、オールスターを迎えるころには先発の3本柱の一つとして、
  桑田は急激に首脳陣の信頼を取り戻していた。

 入団時から17年もの間、読売ジャイアンツの背番号18を背負う桑田は確かにエースである。
  87年、高卒2年目にして2.17の防御率で最優秀防御率のタイトルを獲得した桑田は、
  沢村賞をも得て一気にスターダムにのしあがった。
  しかし、長くは続かなかった。
  桑田自身が自己最多の17勝をあげた89年を挟んで6年連続で2桁勝利を達成するも、
  実質的なエースの名は89年から2年連続20勝を達成した、
  平成の大エース斎藤雅樹のものになっていた。
  やがて開幕投手すらも斎藤によって奪われ、
  その斎藤は94年のシーズンから3年連続開幕戦完封勝利の偉業を達成する一方で、
  桑田は95年6月5日、そのすばらしいフィールディング能力ゆえに
  ピッチャー前の小フライに飛び込み、これをキャッチする。
  しかしそのとき、右ヒジの靭帯はあっさりと切れていた。
  この故障によって、桑田はこの日を最後に戦列を離れ、治療のため渡米する。
  その後97年4月6日に至るまで、
  まさに674日もの期間において桑田の姿をマウンドに見ることはかなわなかった。
  
  だが戦列から復帰した桑田はその年みごとに10勝をマークし、
  さらに翌98年には自己最多にあと1勝と迫る16勝をマークする。
  対照的に、97年の開幕戦でヤクルトスワローズの4番に座った小早川毅彦に
  3打席連続本塁打を浴びた斎藤はその年も半ばに故障離脱し、
  桑田は再び名実ともにエースの座に返り咲いたのである。
  
  しかし99年、ドラフト1位で入団した上原浩治のデビューは衝撃的なものであった。
  150kmに迫るストレートと落差の大きいフォーク。
  真っ向勝負を思わせる投球スタイルは人気を集め、上原は次々と白星を重ねていった。
  桑田に再び試練が襲いかかる。
  一時の不調は層の厚くなったジャイアンツ投手陣をして桑田を先発の座においておくことを許さなかった。
  桑田は中継ぎ降格後も懸命に投げ込んだが、
  制球の定まらない130km台後半のストレートは軽々とスタンドへと運ばれていく。
  いったんメスを入れたヒジと32歳を迎えた肉体は桑田に連投を許さず、
  連投のできないリリーバーに与えられる役割は敗戦処理しか残されてはいなかった。

 その後01年シーズンの終了まで2年半もの間リリーフ生活を強いられた桑田は、
  常にインタビューに対して
  「決められた場所で全力で投げるだけです」
  「きっと今の体験っていうのは後で生きてくると思うんですよ」
  と語り続ける一方、01年シーズンの5月中旬〜7月初旬までを2軍で過ごした際、引退を1度考えている。
  同じく故障により2軍でリハビリをしていた高校時代以来の盟友、
 清原和博に引退を相談したことは有名な話だ。
  体調が万全になっても2軍での調整を続けさせられ、再び体調のリズムが悪くなる、
  そんな抜けようのない悪循環に桑田は陥っていた。
  
  ここで少々話は戻るが、98年あたりからそれ以前は最強の先発3本柱として君臨していた
  斎藤、槙原、桑田の3人に徐々に中継ぎ転向指令が出される。
  まず最初に不在のストッパーに指名されたのは槙原だった。
  槙原はストッパーとしてそこそこの成績を残すが、生来の一発病ゆえか、
  勝負どころでの被弾が目立ち始めると、次のストッパーには桑田が指名される。
  桑田は99年こそシーズン終盤からリリーフとして登板した10試合すべてにおいて
  失点を許さず5S(セーブ)をあげるが、
  00年においては5Sをあげるも防御率は4.50でリリーフとして5敗を喫し、
  ストッパーとして定着することはできなかった。
  最終的には斎藤も01年、故障から帰ってくると厚い先発陣ゆえに中継ぎでの登板を強いられる。
  
  このころから、桑田はシーズンオフだけではなく、シーズン中でもスポーツ系番組にたびたび出演し、
  その心境を語っている。マスコミの意図は明確だった。
  ジャイアンツファンの間に巻き起こっている、ここ数年満足のいく成績を残すことができない
  ジャイアンツの3本柱への批判の数々に対する釈明。説明。文句。
  そんな言葉を桑田に期待していた。
  桑田はそのほとんどのメディアで同じことを語る。
  「この10年間ね、僕と斎藤さんと槙原さんでいくつの白星を重ねてきたと思っているんですか。
  300を超えているんですよ。こんなね、こんなにジャイアンツの優勝に貢献してきた
  槙原さんや斎藤さんに批判なんてできませんよ。
  そのことをもっと評価してくれてもいいじゃないですか。」
  
  そして桑田に転機が訪れる。
  10年続いた長嶋政権に終止符が打たれ、原政権に。
  原新監督はキャンプインと同時に桑田に先発復帰指令を出した。
  しかしその実態は引退勧告でもあった。先発でダメなら引退してもらう。
  そんな風に原発言をとらえたメディアは少なくなかった。

 2002年のオールスターゲームは、脇役・的山のMVP獲得で幕を閉じる。
  各チームが優勝をかけて凌ぎを削る後半戦のスタート。
  だが7月16日の後半戦第1戦のマウンドに立っているのは上原ではなかった。
  その名は桑田真澄。
  前半戦の成績は4勝5敗、しかし防御率は2.28。
  先発の責任回数である5回を投げ終えたことを意味する「当初」の数(完投を除く)は
  前半戦で投げた12試合中12。
  さらにこれ以降も桑田が5回を待たずに降板することは1度もなかった。
  抜群の安定感を誇るエースへの信頼はよみがえっていたのである。
  この日7月16日の横浜戦では7回1失点の好投にも黒星がついてしまうが、
  ローテの1番手にまで自力で登り詰めた桑田はまさに水を得た魚だった。
  その後シーズン終了まで破竹の8連勝。
  終わってみれば12勝6敗の堂々たる成績を残した。
  
  9月11日。
  ナゴヤドームでの対中日戦で122球の熱投を見せた桑田は、
  中日打線を散発5安打に封じ込め今季初完封を成し遂げる。
  この完封劇は同時に桑田を防御率争いのトップに押し上げた。
  シーズン当初、誰も予想し得なかった開幕6番手投手のタイトル争いであった。
  タイトルを争うのは、今季対巨人戦でノーヒットノーランを達成した中日・川上憲伸。
  この2人によるタイトル争いは苛烈を極め、
  10月に入っても以前としてその行方は混沌としていた。
  10月4日。
  桑田はこの日6回無失点で12勝目をあげ、
  防御率も川上を抜いて0.05の差をつける2.22にまで上昇させた。
  一方の川上は10月10日の対阪神戦に先発するも、5回と2/3を3失点。
  防御率争いに決着がつく。
  川上が打ち込まれたのと時を同じくして、桑田は静かにグラブを置いた。
  
  かくして最優秀防御率のタイトルは34歳のベテランに譲られた。
  桑田にとって実に15年の時をおいた防御率のタイトル。
  同じように絶望的なヒジのケガからカムバックし、
  13年ぶりに最優秀防御率のタイトルを獲得した元・ロッテのエース、
  「マサカリ投法」の村田兆冶をしのぐ史上最高記録だった。
  
  この日、15年ぶりに桑田の頭上にエースの鐘が鳴り響いていた。