職人 川相昌弘
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“2番、ショート、川相 背番号、0”
ウグイス嬢のアナウンスとともに、“職人”と呼ばれたその男・川相昌弘は、バッターボッ
クスにまず右足から踏み入れる。川相のバッティングフォームの作り方は少々独特であり、
バッターボックスに体をすべていれたその直後には、ほぼ構え終わっている。
右足を“指定”の位置に踏み入れた後、バットを上から振り下ろすような形で途中で止め、
確認し終わったかのようにもう一度バットを肩の位置まで戻し、それと同時に左足を中に踏
み入れる。
この時川相独特の小さくまとまったフォームは完成しているが、さらに肩に乗せているバッ
トを心持ち上に上げる。そして、投手が投球モーションに入る少し前に、左手をグリップの
真ん中上方、右手を芯からボール一つ分下げた部分にずらし、それと同時にバットをほぼ水
平にし目の高さまで持ってくる。
この時川相の体は、顔を下げ少し前に出したような前傾姿勢を取っている。投手の手からボ
ールが離れると、川相の目は投手の手からバットへと移る。
“コツン”
私にだけ聞こえる音が、そこにある。思わず身震いし、それと同時に感嘆の感情が入り込む。
安堵の感情がそれに付随してくるようになったのはつい1、2年前のことだ。
転がったボールは、それに向かってくる捕手、一塁手、三塁手、投手の位置を視野に入れ、
走者を次の塁へ確実に進塁させることのできるポイントへ転がってゆく。仕事を完遂した後、
スタンドからは歓声が起こり、それは次打者への応援へとつながる。
この“つながり”こそ、川相の最大の仕事といえるが、それはまた後で述べる。そしてジョ
ギングくらいのスピードで走って帰ってくる川相を、ベンチは拍手で迎える。補足を加える
と、川相は時々バントし終えたバットをそのまま水平に下に置き、走り始めることがある。
“確認作業”
これは、川相の犠打へのこだわりを垣間見ることのできる瞬間である。
2
2,3年前から、冒頭のアナウンスを聞く機会は急激に減少していき、とうとう昨年‘99
のシーズンはわずか一試合のみに終わってしまった。
堅実な守備とは言い難いが強い肩、広角に強い打球が打て、何よりシーズン通しての安定感
があった新人・二岡の加入によって、巨人にいる限り私の大好きなアナウンスを聞く機会は
ほぼ消滅したといって良い。
ゴールデングラブ6回受賞と、守備の面でも“職人”と呼ばれる川相は、その呼び名の通り、
派手なプレーは少ない。“堅実”そのものである。
しかし、いまでこそ女性人気No.1の二岡に押され人気にかげりが見えるものの、2,3
年前までは巨人といえば、という時は必ず名前が挙げられるほどの人気があった。顔つきか
らも“地味さ”がうかがえる玄人好みのこの男に、何故人気が集まるのか。
それは川相を応援するものはみな川相の姿に自分を投影させているからだ。
人は“とても真似できない”プレーをする者に憧れを抱き、プロ野球選手を目指す少年なら
ばそのプレイヤーを夢とし目標とし理想とするが、それ以外の者は半ば憧憬、そして半ば
“並外れた才能を持つ者”という目で見る。
巨人であれば、松井、高橋あたりがその典型だろうか。
対照的に、“バントなんて誰でもできる”と思ってる者が今だ多く存在するように、“努力
すれば何とかできる”ように見えるタイプ、つまり視覚的に地味なプレイヤーには、親しみ
が湧きやすいし、応援する人は自らの境遇と照らし合わせて、自己をそのプレイヤーに投影
して、応援することができる。
そういうプレイヤーには、川相のように体格的に恵まれていない選手が多く、そういう中で
頑張っている、というスパイスも効いている。
他人の“努力”を見ると、“努力”する気分になるというもの。守備についても正にその通
りで、守備を向上させるには、たゆまぬ努力で精進するしか方法はない。
川相はこういう“努力”を人に視覚的に見せるという魅力を持っているが、また巨人という
“嫌われ者球団”において、他球団ファンからの人気も高い。“幽々白書”、“ハンター・
ハンター”の著者である富樫義博もアンチ巨人でありながら川相ファンである“変わり者”
だ。しかし、“変わり者”にさせない魅力が川相にはある。
余談だが、こんな話を本で読んだことがある。
練習前のランニングで、球場のライトポールからレフトポールまで走る時、元木を除くたい
ていの選手は、一巡目はしっかりとライトポールの一塁線の白線と、レフトポールの三塁線
の白線をまたいで走るのだが、二巡目、三巡目と走るにつれて、白線の前でくるりと反転し
て走る選手がほとんどになる。
その中で、何巡目になろうとも、かならずきちんと白線をまたいで走る選手がいる。それが
川相と言うのである。こういう点にも川相の努力に対して妥協を許さぬ信条が見て取れる。
肉体的に直接余り意味のあることではないが、精神的に意味のあること、と言いたげである。
堅実とは確認作業の繰り返しであるのか、と学んだ気になった。
3
本題、とも言うべき川相のバントに入ろう。
今や川相のバントは、“職人技”、“芸術的”と言われ、堅実な守備、右打ち(ライトヒッ
ティング)とともに川相の代名詞となっている。
‘99シーズン終了時の川相の通算犠打(バント)数は475個で、球史史上一位を誇り、
1シーズン最多犠打記録66個(‘91)も持っているが、(当時のシーズン試合数130
の半分以上、つまり2試合に1度はバントしていた計算になる)、驚くべきはその成功率に
ある。
このシーズン、川相のバント失敗はわずか2度しか記録されておらず、確率に直せば犠打成
功率97.0%となっている。通算でも、95%を超えている。一般的にプロでも2回に1
回、つまり50%の確率で成功すれば上手いとされるバントは、成功率60%を超える典型
的な2番打者を数え挙げる方が難しいぐらいだ。
最も典型的な2番打者“神話”は崩れようとしているが。
付け加えておくと、高校野球でバント成功率がかなり高いのは、たしかに練習を積んではい
るが、それ以上に投手の球威不足、そして最大の原因は野手のフィールディングの未熟さに
ある。
昨今のプロ野球では、打撃面でのバント練習よりも、守備面でのバント処理練習の方がずっ
と進んでいるため、高校野球のほうがプロ野球よりもバント成功率が高い、という逆転現象
が起きている。
しかし始めから川相のバントには定評があったわけではなかった。
3,4年前、現広島カープ監督の達川晃豊監督が解説者をしていた時、ある試合でノーアウ
ト一塁の場面で川相がバッターボックスに入り、バントの構えを見せ、アナウンサーが川相
のバントについて達川に尋ねたときの事である。
「彼は入団当初はバントが下手だったんですよ。でもそれじゃあ、守備だけじゃあ生きてい
けないっちゅうんで、2年目か、3年目かのキャンプの時から徹底的にバントの練習を始め
たんですよ。そりゃあすぐには上達せんかったけぇど、2年後にはきっちり職人芸になっと
った、ゆうわけですわ。」
キャッチャーとしては球史に残るほどの選手だった達川が言うのだから間違いはない。なる
ほど、川相は甲子園には岡山南高校のエースとして出場している。プロになって内野手に転
向し、その小柄な体で生き残る道をバントに賭けた、というわけだ。
4
川相のバントには、何よりも“つながり”を生むところに、その凄さがある。
通常、バントをするということは、その名(犠打)の通り、自らを犠牲にして打つというこ
とであるから、確実にアウトが一つ増えることになる。アウトが一つ増えるということは、
普通なら流れやリズムを絶つ恐れがある。
つまりこういうことである。
球界のバントの成功率を50%としても、2回に1回は失敗するわけであるが、たとえ3割
打者でも70%は失敗するわけであるから、危険度のより少ないバントで何とか走者を得点
圏に進めたいというのが バントのサインを出すときのベンチ(監督&コーチ陣)の意志で
ある。
“危険度の少ないプレイ”というのはすなわち消極的なプレイであり、そのため、バントは
消極的、強攻は積極的と取られる。
しかし川相のバントはそれに当てはまらない。
なぜなら川相のバントは成功率ほぼ100%だからだ。極端に言えば、ベンチとしては川相
の前にノーアウト(無死)一塁の場面ができれば、すでにワンアウト(一死)二塁の場面を
想定すれば良い、ということになる。
この1番と2番の動作がドッキングしたような一連の流れがベンチと観客の頭の中で、そし
て目の前で行われると、流れは絶えない。リズムは絶えない。
むしろ、ワンアウト二塁という絶好のチャンスを作り上げているのだ。この時、川相のバン
トには消極性などみじんも感じられない。
5
川相のバントが“職人芸”と呼ばれるのには、1つ特別な理由がある。
それは、高目の球を得意とすることだ。通常バントをする時、ボールがバットを構えた高さ
にくるわけではないから、高めの球に合わせたり、低めの球に合わせたりする。低めの球の
場合は、ボールに対して上からバットをかぶせるため、ボールが転がる可能性が高い。
しかし、高めの球の場合、ボールに対して下からバットで追うような形となり、フライ(飛
球)になる可能性が高い。こういう理由で、一般的に高めの球はバントしにくいと言われて
いる。
そういう中で、川相が高めの球をバントするのを得意としているのは、あくまで基本に忠実
というところにその理由がある。
冒頭の描写で表現したが、川相はバントをする時、常にバットをほぼ水平に目の高さまで持
ってくる。そして、低めの球にも、高めの球にも、バットを上下させるのと同時に顔も上下
させる。それでボールがどの位置に来ても、しっかりと目で“確認”できるのだ。
この動作は、バントの基本中の基本であり、甲子園に出てくるぐらいの高校野球のチームに
なれば、必ずやっていることであるが、プロに入ってもそれを持続しているプレイヤーは少
ない。バントは下手だが中日ドラゴンズの久慈照嘉、千葉ロッテマリーンズの小坂誠ぐらい
しか挙げられない。
また、川相が高めの球をバントする時、そのボールは驚くほどバウンドが少ない。
ボールに対してバットを引きやすいからだが(ボールがバットに当たる瞬間にバットを僅か
に引くと打球を殺しやすいと言われている)、それゆえにボールが転がるポイントを指定し
やすいのだ。
逆に川相がバントを失敗する確率が高いのは、150kmを超える速球もしくは低めの変化
球の時だ。これはバントをする時、川相は捕手、一塁手、三塁手、投手の位置を必ず視野に
入れているところに理由がある。
ゆえに川相のバントは、基本に忠実な、つまりランナー1塁ならば、三塁手はダッシュして
くるが一塁手はランナーの牽制のため1塁についていてスタートが遅れるから一塁手前に転
がすような形を取らないことがしばしばある。
その時その時で、ベストのポジションに転がすからだ。三塁手が大型でダッシュが弱く、肩
が弱い、一塁手はその逆、また一塁手があまり一塁に付かずにすぐにダッシュしてくる…な
どである。
逆に言えば、その守備を視野に入れる余裕が無い時が、失敗しやすい時である。150km
前後の速球はもちろんだが、高めの球と違って、目線からして守備が視野に入りにくく、ス
トレート(直球)よりも観察が要求される低めの変化球を苦手としている。
無論、他の球の時と比較して、に過ぎないが。
6
最後に1つ、川相のバントについて言っておきたいことがある。
バントというのは、やはり終盤7,8,9回の“ここで1点”というときにこそ最大限に生
きるもので、初回に先頭打者が塁に出たからといっていきなりバントで送っていくという作
戦を取るのは、私はあまり好きではない。
バントというのは堅実な作戦であることに間違いはないから、場面によっては勢いという面
でやや消極的と取られてしまうことがある。
川相にバントをさせれば必ず得点圏にランナーを進めることができるからといって、序盤か
らそうさせるのは、野球を見てる者としてつまらなく感じてしまうし、何より川相の打撃が
そんなに信用されていないのかと、川相を否定しているような気がして嫌だ。
終盤の“ここで1点”という切羽詰まった時に鮮やかにチャンスメイクしてこそ、川相の存
在感を示せるというものだ。
7
さて、川相は“つながり”を重視するプレイヤーだと先に述べた。
今述べてきたバントにしろ、一級品と言われる右打ちにしろ川相の普段のプレーがそれをよ
く表わしている。ただ、川相の“つながり”を重視していることがうかがえる、普段のプレ
ーでは見えにくい点が3つほどある。
1つ目は、ネクストバッターズサークルでの川相である。
ネクストバッターズサークルでの川相の素振りは、極端に上から下へ振り下ろす、かなり独
特なものだ。これはフライ(飛球)を打たないようにし、とにかくゴロを転がしてチャンス
メイクしようとする意志が見える行動である。
実際にそういうふうに振るわけではないが、気持ちをそういう方向に持って行く。千葉ロッ
テマリーンズのエース・黒木知宏みたいな言い方だが、そんなものだ。ただし、黒木の場合
はその気持ちを前面に押し出していくタイプの選手だが。
2つ目は、“声出し”だ。
以前長嶋現巨人監督が川相を評してこう言ったことがある。
「川相はフィールドにいてもベンチにいてもいい選手だ。守備の時は彼がいるだけで投手は
もちろん我々スタッフ(コーチ陣)の中にも安心感が生まれるし、ベンチにいれば誰よりも
大きな声を出してフィールドプレイヤーを励ますから、彼がベンチにいる時ベンチが静かに
なることはないんですよ。」
なるほど“流れ”を自軍に持っていくにはまず選手個人の意志が大事である。
“何とかしなきゃ”こういう意志が局面を打開するのだ。そのための、声出しである。
3つ目は、川相の守備について、だ。
川相の守備力について私が主観的に評すれば、‘00現在で、肩は弱い方、守備範囲につい
てはあまり広くはないが、守備位置の取り方、打球反応の良さ、球際の強さで何とか一級品、
という程度だ。
だが特筆すべきはエラー率の低さである。肩も守備範囲も最近で言えばヤクルトスワローズ
の宮本慎也や、5,6年前なら広島カープの野村謙二郎には遠く及ばないが、球界を代表す
る“名手”と呼ばれる訳は、そこにある。
本題に入ると、川相はゲーム(試合)というものをよく知っている。エラー1つがどれだけ
“流れ”や“つながり”に影響するかを。
“1つ1つのプレーを大切に”
川相のプレーからは、そんな確認するような意志が感じられる。“ここ”、とう場面を川相
は知っている。ここは絶対にエラーをしてはいけない、という場面が来ていることを理解し、
確実にさばいている。
一流の選手なら場面を理解することができるのは当然だが、そういう時にさらに集中力が増
す選手はそうはいない。その場面とは、終盤1点リードでピンチを迎えている時は無論だが、
自軍にいい流れが来始めている時、我慢しなければいけない時間帯、味方の選手がエラーし
た後など、様々である。
これらの“つながり”を大事にするプレーは、おおげさに言えば“ゲームメイク”をしてい
ることになる。全体としてのチームの流れをいい方向に持って行く、という意味で。
8
川相は主役にはなれない。
松井や上原のように、自分の力のみで直接試合を決める力に乏しい。それが分かっているか
ら、川相は純粋にチームが勝つことを考え、それが“つながり”思考へとつながっているの
だろう。
二岡の加入について、私の所見だが、おそらく川相はいいライバルだと感じながら、反面頼
もしく思っている。すでにコーチのような、そんな感じが感じられることがある。
二岡の肩、パワーは川相にはないもので、それが優先的に必要とされる、けれども川相の力
を必要とする時が必ず来ると信じて、ひたすら出番を待つ、それが‘99のシーズンだった。
‘99のシーズンで川相は犠打(バント)18個を記録している。
しかし目を見張るのは得点圏打率.410(4割1分)である。セ・リーグで打点の新記録
を出す勢いだった‘99打点王横浜ベイスターズのR.ローズでさえ.394(3割9分4
厘)だから驚異的な数字である。
“いつか自分を必要とする時が来る”
二岡との開幕スタメン争いを制したものの3打数無安打で2戦目以降ショートのポジション
を奪われた川相は、集中力を切らさずに黙々と練習に励んだに違いない。
そして職人健在を示した。そんなシーズンだった。
“集中の鬼”と言えば今シーズンから千葉ロッテマリーンズの新4番として巨人から移籍し
た武士・石井浩郎がいる。彼が取材に来た中畑清に言った言葉がある。
「巨人時代はいくらがんばっても試合に出れる保証がなかったんです。でもここ(ロッテ)
ではがんばればがんばるほど試合に出させてもらえて、ちゃんと努力の報いっていうか、充
実感があるんですよ」
今シーズンの石井浩郎には巨人時代にはなかった柔らかい笑顔がある。いい意味での緊張感、
とでも言うべきだろうか。かつて‘94に本塁打39本、打点王を獲得した男が今もっとも
上昇気流に乗っているチーム・千葉ロッテを飛躍の年へと導くことだろう。
川相は今年も去年のようなシーズンをおくるであろうことはほぼ確実だ。
去年は確かに存在感を示すことはできた。しかし川相ファンとしては“2番、ショート、川
相”の復活を願う。現在、横浜、巨人を中心としてバントを必要としない、つまり2番に攻
撃的なバッターを置くという攻撃的野球が浸透して来ている。
小技や守備で魅せる典型的な二番打者はもはや旧式のものとなろうとしている。しかし川相
の様なプレイヤーを必要とする球団は今だ多い。
”1点を取って勝つ野球を目標とする阪神、広島、ヤクルト、…。川相ファンであってもは
や巨人ファンでない私の脳裏には、“移籍”という言葉が浮かんでいる。
川相が巨人一筋であるが、“2番、ショート、川相”の響きを忘れられない私は、“移籍”
を願わずにはいられない。そんな川相ファンの心配をよそに、川相は今シーズンも自分が必
要とされる瞬間を待ちながらひたすら黙々と練習に励むことだろう。
“勇敢闘士 川相昌弘”
東京ドームのライトスタンドには、今日もこの赤いフラッグがひるがえっている。