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出雲民藝紙の歴史

出雲の紙の歴史は古く天平の昔にさかのぼります。それは正倉院文書の「写経勘紙解」によって知られています。しかし、その後衰退し、ふたたび画期的発達をとげたのは江戸時代にはいってからです。

江戸時代の出雲の紙

近世に入ってからの出雲の紙の起源は、江戸時代に入って、松江藩主初代松平直正が、郷里の越前から人を招いて松江市郊外の野白(のしろ)に御紙屋を設けたことにはじまります。
これ以後、楮栽培の奨励とともに、紙漉きは藩の専売事業として発展させられました。つづいて直正の子近栄が、その封地である能義郡広瀬町字祖父谷(おじだに)に松江藩から紙漉きの工人を移住させて御紙屋をつくりました。
当時の出雲の紙の代表的なものとして、野白紙のほか、広瀬の祖父谷紙(おじだにかがみ)、仁多の馬馳紙(まばせがみ)などがありました。
当時今の島根県の石州地方の浜田藩でも盛んに紙つくりが奨励されていました。ただし、浜田藩は、民間に積極的に紙つくりを奨励していましたが、松江藩は専売制をしいていました。
松江市八雲町別所地区の紙漉き技術は、江戸時代の末ごろ、この祖父谷の抄紙技法を学んだものといわれています。


明治以後の出雲の紙

明治維新後、松江藩の統制から自由になった出雲の紙は、急激な発展を示し、明治前期には、麦稈紙(むぎわらがみ)、藁紙(わらがみ)によるブームが到来しました。しかしながら、需要をよいことにして粗製濫造だけでブームをつくったために、やがてブームが去った明治後期には、失墜された信用だけがあとに残りました。また、勃興してきた量産の機械製紙という競争相手をむかえ、徐々に衰退していきました。
別所地区の紙は、松江藩の御用漉きの野白紙の洗練された伝統技術とも、その後、その技術を駆使した廉価な改良紙とも、いわば出雲紙の大勢から離れた所で生まれました。
別所地区は、山と山とにはさまれた谷地で耕地が少なく、それをおぎなうために副業として紙漉きをおこなっていました。紙の産地としてはほとんど知られていませんでしたが、明治32年と33年に土佐から人を招き、技術改良をおこなったり、地区内で製紙原料購買を目的とした組合を設立したりなどおこなわれていました。そうした努力が、のちの出雲民藝紙誕生の基礎となりました。
この地区が、出雲民藝紙の産地として知られるようになったのは、安部榮四郎の個人の魅力と努力に負うといっても過言ではありません。

出雲民藝紙の誕生

安部榮四郎は、明治35年(1902年)1月14日、島根県八束郡岩坂村別所(現松江市八雲町)に生まれました。
安部は、幼い時から家業の紙漉きを手伝い、紙漉きの技を学びました。八雲町は、名高い紙漉き産地ではなく、そのため安部の修行は自発的な研究態度となりました。21歳の時、安部は島根県工業試験場紙業部に入りました。そこで、各種の紙漉き方法を試みながら技をみがき、のちには、島根県下の紙漉き職人の間を巡回して技術指導するようになりました。
そうした活動のさなかの昭和6年(1931年)、民芸運動を提唱しはじめた柳宗悦が松江をおとずれ、安部の漉いた雁皮の厚紙をみて「これこそ日本の紙だ」とほめたのが機縁となり、安部は民藝運動に参加するようになりました。安部は、民藝運動の染織、陶芸、版画などの仲間にはげまされ、鍛えられながら、和紙の持ち味を殺さずに生かして染めた和染紙、水の美しい動きを生かして繊維を漉き込んだ漉き模様紙、楮、三椏、雁皮などの植物繊維の特色をうまく生かして漉き分けた数々の生漉紙(きすきがみ)を発表しました。のちに安部の漉いた紙は、「出雲民藝紙」と総称されるようになり、全国に熱心な愛好者を育てました。

出雲民藝紙の発展

安部は、技におぼれず、常に和紙の持ち味を賢明にいかしながら、今までの和紙の歴史になかった、独自の個性を発揮した数々の名紙を創出しました。安部の紙は、いろいろな技術が用いられていても、植物繊維の持つ特色を十分に発揮するように心がけられていましたから、楮紙は楮紙らしく、雁皮紙は雁皮紙らしく力強く堂々としていて、いわば男性的な魅力にあふれています。
安部は、昭和35年(1960年)から3年間、正倉院宝物の中で千年をこえて保管され続けてきた紙について、和紙研究家の寿岳文章らとともに調査研究をおこない、和紙の原点ともいえる正倉院宝物紙を復元して漉くことに成功しました。
昭和43年(1968年)、安部は、文化庁から雁皮紙を漉く伝統的技術を高く評価され、重要無形文化財に認定されました。俗にいう「人間国宝」のことです。
昭和9年(1934年)東京で、一紙すき職人の漉いた紙のみで一堂を飾る「和紙の個展」という、和紙の歴史で初めての試みを行って以来、昭和59年(1984年)12月18日に死去するまで、安部は毎年各地で展覧会を開催してきました。特に、昭和49年(1974年)の秋には、国内の活動から飛躍してパリで和紙の個展を開き、以後昭和55年(1980年)までに、ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコ、北京の各地で個展を開催しました。
安部は、和紙は単なる消耗品にすぎず、その上に絵や書がえがかれて始めて完成品となるという、和紙そのものの持つ美しさを認めない考えや、誰が漉いても同じだという、紙すき職人の技術の優劣や地方的特色を認めない考え、あるいは機械生産以前の時代おくれの幼稚な技術のものとみなす考えなど、当時の社会の常識的な和紙の見方に対し、和紙の美しさ、真価を主張する努力を重ねてきました。
昭和58年(1983年)、安部は生涯をかけて収集した、貴重な和紙の資料や民藝品の数々を保存、公開するために、 八雲町に「(財)安部榮四郎記念館」を設立しました。また、和紙技術者の育成のため、その付属施設として「手漉き和紙伝習所」を開設しました。
現在、安部榮四郎の心と技は孫信一郎、紀正兄弟の手へと受け継がれています。


(なお、この文書をつくるのにあたり、昭和56年に講談社から出版された柳橋眞さんの「和紙 風土・歴史・技法 」を参考にさせていただきました。)