| 物外和尚と庚申堂 
 ○あれは伊豫こちらは備後の春の風      物 外
 
 これは物外和尚の句碑に刻まれたもので、尾道公園に特設された文字の小路にたてられ
 たものときく。この物外和尚は、広島国泰寺の和尚として山陰を遊歴して母里にも来遊したと
 いう。この物外和尚については、現在のところあまりくわしくわかっていないが、伊豫の国(現
 在の愛媛県)の生まれで、最後は尾道の済法寺(曹洞宗)において七十三才で没したといわ
 れる。
 終生禅業の中に、武芸、兵学、文学、俳諧に傑出、勤王思想の強い人だったと記述されて
 いる。
 生涯広く中国地方を巡錫(じゅんしゃく)し、其の都度各地に遺品と足跡をとどめているの
 で、それ等を通じてその風貌を想像することが出来る。
 母里には安政元年(一八五四)秋来巡、二年春井尻一乗寺を最後に京に上ったと伝えら
 れ、約半年間滞留したことになり、その間母里の庚申堂を根城にして、藩士宅を訪れては兵
 法を論じ武芸をくらべ、書、俳偕をなしたといい、これに接した藩士達はその博識に感服した
 と申し、また力自慢でもあり若者五・六人を相手にして、綱引きをしても楽勝したというから十
 人力はあったと云う。特技として鉄拳自慢で碁盤などげんこつすると盤がへこむ程であったと
 申し、杉板など並列して黒書して物外と記号下に、鉄拳でへこみをつけたとの事で、俗にげん
 こつ和尚と呼ばれる。遺品としては西村家、宮廻家、永昌寺に額、軸があり、このげんこつ和
 尚の足跡で今わかっているが、嘉永二年(一八四九)米子、嘉永三年松江、浜田を経て安政
 初年母里に来ている。勤皇思想家である物外和尚が当時勤皇佐幕と世論騒然とした中に、
 徳川親藩である松平支藩に来て半年の間何を施し、何を学び悟って行きたことか、今日の我
 等には興味深いものがある。
 庚申堂(現母里本町往昔円福寺境内)物外和尚が母里滞在の根城にしたと云う庚申堂
 は、以前は間明山円福寺の境内にあったといわれ、いつの年か悪疫流行の折本町に堂をま
 つり勘請したと伝えられ、時代がはっきりしないので物外和尚来往の頃の処は、この何れに
 住まいしたかはっきりしていない。この庚申堂は円福寺管下で以前干支一めぐり六十日ごと
 に赤飯ずきの庚申さまに講中の方々が赤飯を炊いて供え読経、祈りをした後近隣の子供達
 を接待したり、盆の十八・十九日は、御本尊御開帳を願い供物、読経、盆踊りと手厚いおま
 つりをする習わしであったと古老は語る。この堂には、本尊の庚申像より外に、眼光爛々とし
 た不動尊外数体が祀ってあり、この不動像は佐古谷円通寺(尼子時代に栄えた寺院)より移
 管したもので、大変すぐれた由緒ある仏像が安置されている。
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