六 手付け金代わりに”拳骨手形”

 岡山系の古流が、講道館の猛者連をひと泡もふた泡も吹かしたのは、いずれも寝技の勝負であった。講道館は、警視庁武術大会において、立ち技で古流派を圧倒したが、その次の時代では、寝技でさんざん古流にひどい目にあったのである。確かに立ち技においては従来の柔術にない目ざましい躍進を遂げた講道館も、立ち技本位に片寄ったため金谷、田辺、今井、大島らによって苦汁をなめさせられた。以来、講道館でも、寝技の研究が盛んになったが、講道館側には、負けた記録は何一つ残されていない。
 古い人は、立川文庫で拳骨和尚の武勇談をご存知のはずであるが、若い人々のために、その二つ三つを紹介しよう。”不遷”というのは(いみな)で”物外”というのは号である。
 物外は、広島の浅野候の菩提寺、伝福寺の観光和尚に教育を受けたが、和尚の目を盗んで、12歳の頃から武術を習った。16歳の春、大阪へ出て托鉢修行のかたわら儒学を学び、19歳のとき、好きな武術が忘れられず、坊主修行を3年もストップして、諸国を遍歴して武者修行をした。
 物外、26歳の文政2年(1819年)春、京都の興聖寺から江戸駒込の吉祥寺山内の栴檀林(せんだんりん)の加賀寮に掛錫(おしゃく)3年、熱心に勉強した。
 尾道の済法寺の住職となったのは、文政11年(1828年)物外が35歳のときであった。そのとき、播州姫路の藩主・酒井忠積公の祈願所として、毎年二百俵の寄進を受けた。物外和尚は生来の力持ちに加えて、拳法や柔術、剣術、鎖鎌、槍術、杖術などを修行し、自ら一派を開いて”不遷流”と名づけた。この不遷流柔術には”当て身””逆手””寝技”を主とし、杖、槍などの術が含まれている。"拳骨和尚”の名は、その”当て身”の鋭さと、希代の”強拳”から世間の人々がそう呼んだのである。
 また、和尚は書をよくし、揮毫(きごう)を頼まれると、紙や布をさけて板に書き、款印(かんいん)の代わりに、拳骨をもって凹印を押したという。
 当時、江戸相撲で鳴らした大力士・御用木雲右衛門が、済法寺の物外和尚の怪力の噂を聞いて、はるばる江戸から下って力比べにやってきた。そこでどんな力比べがあったかは、はっきりしないが、とにかく雲右衛門が「とてもかなわない」と兜を脱いだ。そこで、和尚は「自分が勝った印に」と、済法寺本堂の欅(けやき)の柱を拳骨で突いて、三つの大きなへこみをつくった。この柱は現在も残っている。
 物外が京都にいたころ、洛中の古道具屋で、榧(かや)の碁盤をみつけた。欲しくなって値段を聞くと「二両二分」という大金である。和尚は持ち合わせがないから「二、三日中に金を持ってくるから、それまで誰にも売らずに待っていてくれ」と頼むと、主人は「それまでに買い手がつけば売ります。しかし、あなたが手付け金でも置いてくださればお待ちしますが・・・」という。
 すると和尚は、やにわにその碁盤を手元に引き寄せ、軽々と裏返しにして、拳を固めて「エイッ」とひと声打ち降ろした。この一撃の響きで棚の上の物が落ちて、主人はびっくりして飛び上がった。和尚は笑いながらへこんだ碁盤を指さして「さあ、これが手付けだ。わしの手形を入れておいた。よろしく頼むぞ」と、店を出ていった。主人はその拳固とのあとを見て、まだ口がきけずに震えていたという。
 次にこれも碁盤の話だが、ある日、和尚が碁盤を商っている店へぶらりと姿を現した。ひとつこの主人を驚かしてやろうと茶目っ気を起こした。
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