松江八百八町 町内物語


松江八百八町 町内物語 白潟の巻(昭和30年6月1日初版 松江八百八町刊行の会編
集)にも、物外和尚の記述が載っておりました。
宗泉寺と拳骨和尚

 げんこつ和尚が長らく滞留したというので有名であったのは、寺町宗泉寺であった。この地
に数多い曹洞宗退休寺、源翁派末寺の一つであって、十一面観音を本尊としている。明徳
元年松浦熊太郎が才の神あたりに開いて宗泉庵と称していたが、開山から五十五年を経
た、今から五百十年も昔の文安二年、松浦熊太郎の末裔といわれる松浦唯之進貞房が今
の場所に再建し、祝盛山宗泉寺と改め、趙天仲寺大和尚を迎えて開山と仰ぎ、彼一門の菩提
寺と定めたのである。
 嘉永三年、住職の笑厳和尚と交友関係にあった世にも名高いげんこつ和尚こと、物外和
尚が滞在した。げんこつ和尚の実父は武田信玄の裔といわれる伊予国松山藩の三木兵太
夫という武士であった。和尚は身の丈六尺の大男で米俵二俵をかるがるかつぎ高下駄で歩
くという豪の者で、長い逗留の間毎日笑厳和尚と談じながら斗酒も辞さなかったといい伝えら
れている。
 和尚は勤王の僧としても名を知られており、松江藩士石原佐伝次、大石源内、杉原源蔵、
諏訪豊弥などに武道と神道を鼓吹するなど、長い滞在といえどもずいぶん急がしくしていた。
ある日のこと、宗泉寺の庭園において石原佐伝次の門下小倉六蔵と和尚は力技を競った。
最後に小倉は和尚を柔道の技によって茶畑に投げつけた。さすがの和尚も出雲藩の柔道に
は舌を巻いて驚いたという。同寺の本堂にかかげられている「善通物」の大字の額はこのげ
んこつ和尚の書いたものと古老はいっている。泥仏庵と号が記された下に印はなく、そこに
かなづちで打ったような三ヶのきずあとが見えているのを和尚が拳をもって印の代わりにし
たものだという。
 宗泉寺に留まること六十余日、その後、勤王の同志と往来し運動を続けていた。慶応三
年、討幕の密勅が下った際に、薩長軍に投じて江戸に向かわんとし大阪に滞在中、七十四
才で病歿した。この宗泉寺には今もげんこつ和尚の遺筆が数多く残されているといわれる。


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