第三話 底抜けの大力


 その年(文政二年)の夏、芝の近辺で三人組の辻斬りが出て通行人をおびやか
した。
 「拙僧が行ってやめさせてやろう」
 物外は暮方から出かけてその場へ行く。果たして三人の辻斬りが出た。説諭して
やめさせようとしたが、血気にはやってその一人が斬りかかって来た。
 「このバカ者っ」
 物外は一声さけんでその者の小手をつかんで投げつけたが、また起きあがって
取っ組んで来たから、物外、そいつを小児のように軽々と引っつかんで振りまわし
たから、他の二人もおどろきあわて、我れ先に逃げ出した。
 おなじころ、日本橋を通りかかった、会津藩の武者修行者と肥後藩の侍が、刀の
こじりが当たったことから喧嘩になり、両人とも、真剣勝負でケリを付けようというこ
とになり、その筋へ願い出て許可された。決闘の場所は御堀外広場で、目付の指
図で竹矢来がつくられた。両人その中に入って斬合いが始まったが、ふたりとも腕
が立つと見えて勝負がつかない。時間は経つし、息は切れるし、くたびれてフラフラ
になってしまったが、やめるわけにもゆかないで睨み合っていると、通りかかった物
外が中へとびこんで「貰い」をかけた。見物人も片付かなければ立ち去るわけにも
ゆかず、食い切りの悪いところであったから、物外の仲裁は時宜を得ていた。
 「お坊さまの名は何といいますか」
 「拙僧は駒込吉祥寺の物外といいます」
 これから物外の名が、江戸の人士にやや知られるようになった。
 その後、越前に行って、永平寺の学寮にいた。
 あるとき誰がしたのか、寺の釣鐘をおろした者がある。こまったのは雲水たち。
朝夕の行事の合図に梵鐘を鳴らすことができない。みんなで総がかりで動かそうと
しても、鐘はびくともしない。そこへやって来たのが物外。
 「ごちそうしてくれたら上げてやる」
 「ごちそうというのは何だね」
 「うどんじゃ」(一書には茶飯)
 うどんのごちそうの約束で、物外は軽々とその鐘をもち上げ、もとの位置に釣下
げた。むろん鐘をおろしたのは物外だった。それ以後もうどんが食べたくなると、す
ぐに釣鐘をおろしたというから、ずいぶん厄介な坊主もあったもの。
 それと前後するころの話とおもわれるが、彼が加賀の大乗寺へ雲水にやってき
ていた時分、ここにも珍聞がのこった。
 彼は皆から「安芸の物外」といわれ、力の強いので有名だった。寺の柱をもち上
げて下に藁草履をはかせるなど、凝ったいたずらをしたが、あるとき、役僧たちと
寄食している雲水たちとが大喧嘩になり、寺の大旦那だった本田安房の守が、取
りしずめのため手兵をさし向けた。
 ところが、誰ひとりとして物外にかなう者がない。かたっぱしから物外につかまっ
て本堂に投げこまれ、入り口の扉がピタリと閉められてしまう。このときのつかみ合
いで、物外は大乗寺の大木魚を投げつけたので割れ目ができた。
 彼は行脚斗藪の旅中では、いつも三人力の鉄棒をかついでいた。越前永平寺に
も彼の手形のついた柱があり、四本の指痕まで判然としていたという。
 加賀方面では、「安芸の物外と甲斐の素暁」といってこの両人を禅僧の古今の二
名物と称している。(稼堂叢書『三州遺事』)。この素暁というのは、むかし大乗寺に
いた鼻たらし小僧で、金沢の献珠寺へやってきた黄璧宗法嗣の高泉和尚を、小僧
のくせに巧みな弁口でへこまして名を揚げた。これは物外よりずーっと古い時代の
話、寛文十二年(一六七二)のことである。
 物外が金沢に滞在中に、剣豪を相手に力くらべをするという奇談がある。
 −ちょうど、犀川の橋をわたっている時であった。向こうから立派な武士が来か
かった。どちらかが右か左へ避ければ何でもなく行き違うのに、ふたりとも道をゆ
ずらない。何を、と威張っているからたちまち衝突して取っ組み合いになり、その拍
子に橋の欄干がこわれて、両人ともドスンと川の中へ墜落してしまった。ドスンとい
うはずだ。水中でなくて、小石と砂利ばかりの河原だった。
 −それでも阿吽の取っ組み合いは止まらないでつづく。強力と金剛力の対決。た
またま通りかかった見物人も少なくなかったが、あまり凄まじい光景に仲裁に入る
ことができない。両人は取っ組み合ったままでズズッ、ズズッと押してゆくので、河
原の小石が十間も二十間も掘られてゆく。見ている者は魂げてしまった。いつまで
やっても勝負がつかないから、とうとう武士の方から声をかけて腕をほどいた。
 「もうやめよう。貴僧のような力の強い者に会ったのは初めてでござる」
 ここで両人が名乗り合った。武士は加賀前田家に、新規召抱えになった戸田越
後守であった。『武田物外逸伝』に、この戸田越後守は戸田流の開祖で、合気の術
が得意。十間も二十間も離れている人を睨み倒すことができる、と書いてある。
 戸田越前守の名は、古い時代から疑問が多いが、江戸時代後期の戸田越前守
は、室町時代の戸田次郎右衛門頼母(気楽流水橋隼人の門人)を祖とする戸田流
柔術の末らしい。技目には捕手・鎖・遠当法・縄をふくみ、遠当は実は目つぶしの
術であった。

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