直信流柔道の開祖、寺田勘右衛門の父平左衛門定安は若狭の人であり、元来多芸な人で、軍陳組討である貞心流和術の開祖である。寛永十七年雲洲松江の城主松平出羽の守高真公に奉仕して知行二百五十石を賜って致仕し外中原に住した。
寺田勘左右衛門定安の妾子に勘右衛門満英という人があった。元和四年四月十六日若狭で生まれ姓を藤原といい諱を満英といった。幼名は正重と呼ばれ、体格は短小であったが英気は万人にすぐれており、幼少より非凡な豪傑となる素質を具していた。父の定安について貞心流和術の奥義を窮めたが、ある日彼は奮然として父にいうのに「我れ故郷に於て位官につき出世せんよりは斬道を研究して天下一大武人とならん」といって家督を弟の定次に譲り父の許を得て日本武者修行を志して京都の叔父頼重を訪ねた。ここで頼重より、福野流の柔術を授かり、弓馬刀槍および諸家の戦法を兼ねて刀鍛冶まで勉学した。それから叔父の許を去り天下を周遊して武者修行をなして立派な武人となった。満英が苦難の錬磨にはげんで一流を成すに至ったのはこんな事があってからである。
諸国遍歴中、ある時山中にて一仏堂に入って一夜を過さんと臥したが、しばらくして何者か入って来て満英が伏してねている背中より急に斬りつけたが満英は刀傷一つ受けなかったという。これは背中に刀を負ったままねていたからであった。これをもっても彼の用意周到さを知ることができる。またかって一駅に宿って燈の下に座し、うつらうつらしていると床の間にかけてあった掛物が風もないのに動くのである。しばらくしてその後から人が頭を出し中の様子を窺った。壁の後に大きな穴をあけて掛物でおおって分からぬようにしてあった。勘右衛門は強盗だと気づいて半弓を出して打った。強盗はそれでも頭を引っ込めない。いくら打ってもくるりくるりと頭をまわして矢は一本も当たらない。半弓というのは籠に乗る時持つ小さな弓で箭は十二本ついているものである。勘右衛門は考えて一本だけは箭の代わりに扇子を打って見た。すると十二回打った時賊は矢がなくなったと思って掛物を押しのけて全身を露わし抜刀して躍りかかって来た。勘右衛門は残しておいた一本の箭で賊の喉をねらった。箭はのどにあたった。賊をころしておいて壁の外を見ると泥をこねて作った人の頭がころがっていた。賊ははじめ此の泥人形を使って箭を使い果させようとしたのであるが、勘右衛門の機智には及ばなかったのである。
またある時一人の士人がある事より兇徒の為に果し合いを申込まれたが、この士人は武術を知らない為に窮地に陥って大いに困っていた。満英は大いに憫み、とっさにその士人に「刃を上に向け先を下げ眼を閉て構え、敵が切込んだら向うへ飛込め」と刀法を教えて闘わせたら彼の兇徒はたちどころに斃されてしまった。このときの刀法は「箭射の術」というものであった。士人大いによろこんで家宝の「雲州駒返道永作」と銘入りの一刀を献じて「この刀は家宝なれども重恩に報ゆる術もなければ是非微意を入れて納められたい」とその気持を表そうとした。この刀は二尺にも満たなかったが神影人を射て英気がほとばしっていた。満英はかたく辞したが、強いての志であるのでこれを容れ、その後はこの刀を佩用していた。
ある時この刀を持って百人斬りを企てその術を試みようと考えた事があった。道道人々を切ってある日両国橋に至った時、一人の僧が一心不乱に仏号を念じてこちらに来るのを見るや憫然に思いつつもこれを斬りつけた所、僧は自若として去って行ったので怪んであとを追って尾行した。丁度小川があって僧がこれを渡ろうとしたら彼の体は二つになって分かれたということがあった。道永作の名刀の神秘かくのごとくであった。しかし憤然として己れの至らなさを知った満英は、剣道の奥義を窮めるのは技術の末のみに熟したのでは駄目だと悟り、そのまま深山に入り静座澄心して斬道を思念した。ある日仙人が来て満英に『長生の法』を伝授した。これによってその用の万変にも応じうる極りなき道を悟ったといわれる。これが秘伝書にある有名な「本位伝」である。それは本立って道生ずるやといわれ、丹田に力を入れて気力を充実させることからはじまる精神修養方法である。またこの頃より禅に志し、僧沢庵について学び遂に不動体不動智の妙理を発見した。それはつまり動かないということは迷わないことで大切であるが、木石のごとく固定することでなく、また行のない単なる知識の世界では動と不動とは相容れない観念であるが、行に依って自覚体感した智の世界では動即不動、不動即動で寸時も留まらず、随所で主となることができるということの発見であった。
その後林道春に儒学を学び遂に一家を大成した。ここにおいて自己の流派を直信流柔道と名づけて出雲に皈り、宗家の定次とは別に禄二百石を賜って師役となり、新たに柔道教場を外中原に開き斬道の普及に努力した。この流派は起倒流、汲心流の投げわざと揚心流、天神真揚流のかためわざからできていて、徳川の泰平に恵まれて、従前の組討的柔術とは趣を異にし術としての直接目的以外に武道精神の涵養並びに国民精神発揚に重点をおき、その内容は、止水、巡勢、刀避、道任、権奪、応疾、運抱、立従、●(走〔そうにょう〕に替)臨、●(走〔そうにょう〕に替)更の十目録の柔と白色刀、黄色刀、青色刀、黒色刀(以下表太刀)逸刀、変刀、切刀、切身刀、老輪刀(以下裏太刀)の外峰谷、鷹返、沈刀、浮沈刀、刀凌擢の剣の五太刀の目録から成っている。また裏太刀と仕掛との二つを大業と称し専ら心胆の錬磨に用いられていた。この流は松江藩および備後の福山藩のみに行われていた。
福野正勝の門人である吉村兵助扶寿も請うて門人となった。その他の門人に宮崎与三兵衛(力士利重のこと)井上九郎右衛門も有名であった。
直信流柔道場の寺田勘右衛門の家は外中原月照寺通りにあったが、その近くに一介の力士から一躍二百石御舟屋奉行に取立てられた宮崎八郎左衛門利重という藩士が住んでいた。身の丈六尺余りの強力無双の士で慶長十七年豊後国小倉の東北小邑箕島に生まれたから四股名を箕島といった。日本大関をつとめた力士日下開山箕島重太左衛門のことである。松平直政は彼を愛し江戸参勤には必ず従えた。ある時大堰川が満水で轎夫がほとんど溺れ死んだ時、彼は轎夫を助けて無事川を渡ったという怪力の持主であった。また寛文元年御舟屋奉行をつとめたが、これより力士の者は御舟屋に属して身分が安泰になったのも公の彼に対する信頼が厚かったからといわれる。彼は満英とは日頃からの親友であった。ある日満英に向って「寺田氏は術をもって、托者は腕力を使って共に君に仕えている。しかるに拙者に比すれば貴殿は一侏儒に過ぎぬ」とすこぶる不満気で、しばしば暗夜に襲っては力量差を試みていたのである。ところが箕島の怪力をもってしても化身のごとくに応ずる満英にはつねに及ばず、かえって手玉にとられる有様であった。遂に箕島は「武は固より術である。術は錬磨にある。徒らに強力を恃むべからず」と嘆き、膝を屈して師事せんことを願った。これは遠い寛永の頃の昔話しである。箕島をしてこれであるから敵する者はあろうはずがない。箕島の墓は中原土手町大雄寺にあり隋信院宗喜霊と号し延宝七年五月二十三日六十八歳で歿している。
またある春のうららかな日、彼は駅馬に乗ってゆらりゆらりと東海道を上って行った。快い風にいつしかねむりを催した寺田はうつうつと馬上で居ねむりをはじめ、遂に落馬してしまった。驚いた馬はパッと飛びはねたがその拍子に満英の腹を蹴って先方へ飛んだ。しかし満英は平然として起き上がり、何事もなかったように着衣のほこりを払っていた。この様子を見てびっくりした馬子が満英に尋ねて「本当に何事もなかったのですか」ときくと、満英は答えて「俺の腹は別状ないから安心いたせ。それよりもお前の馬の足をいためたのではないか」といわれたので馬子はいぶかしげに先方を見て驚いた。見れば馬はビッコを引いて歩いていた。この事があって以来街道筋では直信流の出雲の柔道の師範寺田先生の名はいやが上にも広がり、諸国より入門するもの三千の多きに達したという。直信流柔道の要訣は胸腹の気を臍下におろし臍下の気を更に丹田にさげて、丹田の気力を充実せしむるにあって、然るのち始めて体得するといわれ、これを本位伝と称し(本立って道生ずるの意)よく本立の道生ずれば人は気力を下腹に蓄え得て一気にこれを注げば巨帯も切れるといわれ、達人ともなれば下腹の固さはあたかも石の如しと形容されるほどであった。
山中中左衛門通道(外世)はもと石見にいたが故あって国を去って出雲の杵築に来た。当時隣国に仕うるを禁じられた頃であり、本姓は佐々木であったが外家山中鹿之助の氏を胃して山中と改めた。幼にして筆道に志し海岸の砂浜で練習をなし、夏は蛍光で学んだほどの貧乏書生であったが、万治元年直政に召出され、高野山西方院僧春深につき三年修行し皈国して百五十石の松江藩筆道の祖となった。(次子章弘は父の流をついだ筆道の師範)寛永より寛文の頃、寺田勘右衛門、山中外也、箕島八郎左衛門の三士はそろって武者修行をなし、それぞれ専門とするわざで松江藩の勇名をとどろかせた。これは三氏の木下廻りといわれていた。
満英は延宝二年甲寅秋八月十七日、五十七才をもって歿し、松江城西清光院に葬られた。釈号を「定得院一峰宗麟居士」と称した。融子なく家は絶えたが、柔道は弟の定次に伝授したので定次が直信流柔道の直系を継続した。満英が歿した頃は四代将軍家綱時代でこの時代柔術は各流派共、和とか体術とか呼んでいたが、すでに直信流のみ柔道と唱えてその本質を明白にした事は全く敬服の外はない。
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