寛政年中松江藩に高尾藤太、太田善之丞、土岐円太夫の三人の壮士がいた。善
之丞は伝兵衛とも称し弓の名人であり、円太夫は剣術が得意であり、藤太は直信流
八代の師範石原左伝次中和の高弟で柘植小源太と共に拳法の名人であった。三人
は日頃友としてよく交わっていた。そして各々特技をもって巷を横行したので人々が
畏れてこれをさけて通ったという。当時の俗界では尚武の心が盛んであり、少年達
は或いは夜集って角力の稽古などを神社仏閣で行っていた。ある夕方角力を末次
の祠で行っていたが、たまたま三人が舟で宍道湖に遊びに出た時だったので寄上
がって見ていた。子供達の中に一人強い者がいて向かう所敵なしの状況であった。
すると藤太は出でてそれと角力し少年の胸をついてなげとばした。少年は痛々しくな
きさけんでたおれた。つまり藤太は手法をもってこれをなぐりたおしたのである。一
場は大変乱れて騒々しくなったので三人は舟に乗って湖に逃れてしまった。舟が大
橋の下に到る頃市中の悪童達は橋上よりこれをののしったので、一人は舟をとめ、
二人はもぐって橋の左右より橋上に上がって、悪童をとらえ舟につれこみ、そこで説
教していうには「お前達は武士を恥辱したがそれは死刑に相当する罪だ。だから石
のおもりを付けて水中に沈めてやろう」と。少年達は一生懸命でことわりをしたので
三人はそれでは死はゆるしてやるといって嫁が島につれてゆき之を樹にしばりつけ
て去ってしまったという。またこんな話もある。松江城西の新橋橋上から朝日山を遠
望し「朝日山はここから見ればこんなに近い。これを一直線にいって見ようではない
か」と相談一決し、直ちに着物を脱ぎ佩刀を脱して頭上にのせ、新橋川から四十間
堀を超えた。藤太は小兵であるので深みの処で殆ど溺れようとしたが、友がこれを
助け岸に達し、それより丘陵といわず田圃といわず墻壁民家をも避けずクロスカント
リーを遂行し朝日山に登った。世にこれを「朝日参り」といわれている。藤太は「なぜ
人はまっすぐな道を作らないだろうか」といったそうである。
またある日、神亀峡山中の立久恵に遊んだ。そこには大きな岩や深谷が立ちふさ
がっていて、心臓が動悸を打ち、目もくらみ、まっすぐ腰を伸ばすことができぬ位お
そろしい峡谷があり、伸腰岩といわれる岩があった。藤太はその岩上にのぼり平地
を歩むごとく、そこで倒立した。友人はこれを見て「あまり体を軽んずるな」と戒めた
が藤太は平気で「柔道の妙術とはこんなものだ」と笑っていたという。また三人は申
合せて武士は謄をねらなければならぬからいつでもよい、夜中白鹿山へ行き狩をし
ようではないかと話し出した。皆賛成したので三人揃って登山した。ところが樹木は
天を蔽ってくらく、茨などが路をふさいで歩けなかったが三人は共力して登っていっ
た。白鹿山は尼子方の古城跡で山中には井戸の古いものが多い。藤太はその井戸
の中へあやまっておちてしまった。幸にも刀が井戸につかえて中間でブラ下がった。
つばを落としてみたら相当深そうである。「早く助けてくれ」と古井戸の中から叫んだ。
二人は帯をといてこれを下げ、やっと救い出した。三人は共々口をそろえて「命あっ
てのもの種だ」と夜狩を中止して帰ったということである。
またある日土岐と高尾は松江から大社に日帰りで参拝した事がある。大社は松江
から十里ほどの所であるので早朝出て夕方おそく帰ることが出来るが、往復二十里
を徒歩してさすが二人はつかれ、足は棒のようになった。それでも例の者の二人が
いうのには「大社は余り近すぎるので我が健脚を試みるには不足である。今晩は赤
崎(石橋町)の観音祭であるから行こうじゃないか」。「よかろう」と、話はきまった。
夕食後土岐は高尾を誘いに出かけた。ところがつかれ切った土岐は匍匐して高尾の
門に入り、障子の隙より中を見ると、高尾も匍匐して出て来たが、双方共そしらぬ顔
で、土岐が戸をたたきながら、「つかれたか」、というと高尾は「いやふだんよりも気
分がよい」と少しも弱気をはかなかった。そこで二人は相携えて赤崎の観音に参詣
したという。人々は後々まで伝えて笑い話にしている。
広瀬の藩士である岩崎弥太郎は腕力人に絶して強かったといわれる人であるが、
常日頃鉄製の棒の重さ四十斤ほどのものを持って、いうのには「これをもって一撃
を加えれば何物も粉砕してしまうことができる」とじまんしていた。ある夕方盗賊が家
に入った事があるが、弥太郎は例の棒をもって踊り出た所賊はおそれをなしてかき
をとびこえてあわててにげてしまった。弥太郎は追撃したが追いつけず鉄棒を投げ
つけた。棒は賊にあたらずかきねにぶつかってかきねが五尺もこわれてしまったと
いう。ある日松江に行き高尾藤太と合った。彼は柔術をもって有名であったので、二
人はともに武術を論じていたが、弥太郎は例の棒の有利なことを説明して自慢した。
そこで藤太は庭の松の樹を指してこの樹が切れるかと言った所、「何でもないあさめ
し前だ」といって力を込めて大松を数十回打撃したらさすがの大松も幹からさけて倒
れてしまった。藤太は臍で茶を湧かすように大声で笑って「何だ、その下手なことは。
そんなことでは私の頭を打つことはできないだろう。もしできるというならば一度ここ
ろみて見よ」と嘲笑した。弥太郎は初めは藤太のいうことは戯れとして取合わなかっ
たが、再三いうので彼は遂にばかにするなとおこり、「遠慮はしないから用心せよ」と
いった。藤太は正座して擢扇をあげて「自分はこれが一本あれば十分だ」とまたもや
笑ったので、弥太郎は益々怒り鉄棒を頭上一ぱいに振りあげてこれを打撃しようと
した。アワヤ真二つかと思われたがしかし間髪を入れず藤太は身を翻して走り寄っ
て弥太郎の腰を抱き扇をもって腰にあて「どうだ」といった。弥太郎は残念がって鉄
棒を投げてあやまった。そこで藤太がいうには「お前は刀剣の鋭利さをおもわずに
鉄のむちの鈍重さを頼りにしている。それは迂というものでまがりくねって適正でな
い。真逆(まさか)の時に役に立たぬものである」と。その後弥太郎は太刀を帯び鉄
棒を手にしなかったという。 |