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養神館合気道
                   
(2)白滝郷土館



     合気道開祖・植芝盛平ゆかりの地・武田惣角ゆかりの地探探記    
(2)白滝郷土館
  前日は網走ホテルに泊まり、レンタカ−で北見を通過し、遠軽町に入ってから途中で、開祖と親交のあった近代福祉事業の先駆者でもあり教育者であった著名な留岡幸助(1864〜1934)の創始した北海道家庭学校を見学し、国道333号線をひた走り白滝に到着しました。インタ−ネットから入手した合気道マップはありましたが、白滝郷土館の場所が分からず国道450号線に入り込んだりして、行きつ戻りつしているうちにやっと国道333号線の裏側の民家のような郷土館を探しあてました。そこには約1メ−トル四方のショ−ケ−スの中に開祖の写真、略歴の書かれたパネルとその前に鉄扇が置かれていました。高齢の夫婦が管理していましたが、頼むと快くこの開かない鉄扇を持たしてくれました。重さ660グラム、ずっしりとした重い感触がありました。開祖はこの鉄扇をつねに護身用に左手に携えて馬に乗っていたことは今もなお語りぐさになっているとのことです。そのさまは人呼んで「白滝王」と形容するに十分な威風堂々とした姿であったと思われます。
  馬の鞍、馬そり、鉄砲、かんじき、鍬、のこぎり、斧、まさかり、背負子(しょいこ)など開墾当時の農機具・生活用品が展示され、往時の生活とその苦労が忍ばれました。今は山奥に入らないと見れないそうですが、その頃大きいものでは直径1メ−トルもある原生林(エゾ松、トド松、ヤチダモ、アカダモ、ナラ、白樺)があり、それを今のように電動工具がないので金時マサカリや土佐製のスギリで切り倒し、往時は年間500本以上を伐(き)り倒したそうです。その上、鍬やシャベル、つるはしを使って根株を掘り起こしたのです。車はないので徒歩か馬又は馬にそりをつけて雪中を往来し、畜力(馬)で原木を搬出したり、荷物を運搬しました。またヒグマ、鹿を狩猟するため鉄砲を使いました。オオカミはその頃はすでに絶滅していました。耕耘機はないので鍬で畑を耕しました。手作業が主体で、伐木開墾には大変な困難がともない、しかも零下20度、積雪量1〜2メ−トルとなる厳冬期(11月〜4月末)は毎年のことであり、開祖の入植した当初2年間は夏に暴風雨等の気象的悪条件などにより不作にみまわれました。その間、飢えと寒さに悩まされ、馬鈴薯の栽培を知らず、伐木による山稼ぎで米、麦を購入あとは自生の山ゴボウ、フキ、ワラビ、ゼンマイ採取し、湧別川とその支流でヤマベ、イワナの川魚を食したそうです。この頃はまだダムがなかったので鮭までオホ−ツク海から遡上していたようです。
  開祖の関係方面への救済補償交渉や団体員への叱咤激励、自ら先頭に立っての開墾により、大正3年秋には早くも開拓の成果があがり定住の見通しがたつようになりました。開祖の企画に基づくハッカ耕作、造林事業、馬産・酪農振興などその後の白滝発展の大きな要因となりました。

  ショ−ケ−ス

   

  愛用の鉄扇 

   

  馬につける鞍(くら)

                                        
  『合気道開祖植芝盛平伝』87頁より
  大正2年巨木を倒して製材に励む