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養神館合気道
合気神社探訪記  

            
 合気神社参拝探訪記

1.主旨:合気道開祖植芝盛平先生の創られた合気神社を参拝し、神様と開祖の霊に感謝と敬意を表するとともに開祖の愛弟子磯山博(8段)先生のご指導のもと今に伝わる開祖の合気道とその稽古を見学し、合気道の原点を探り、合気道修業の糧とします。
2.合気神社及び財団法人合気会 茨城支部道場 所在地 :
  茨城県笠間市吉岡27-1 電話・0299-45-6889
3.日時:平成21年11月1日(日)午前10時から午後1時30分まで
4.師範略歴:磯山博先生は昭和12年1月14日、旧岩閒で生まれました。昭和24年6月に入門し、開祖に師事し、昭和60年1月合気会8段を取得されました。現在は合気会茨城支部道場長代行をつとめるかたわら合気会・全日本合気道連盟理事の要職にあります。
5.参拝者:合気道養神館島根支部会員7名及び谷塚同好会会員1名計8名
6.合気神社について
  合気神社を私が参拝するのは2度目になります。今回の下見を兼ね、養神館本部道場落成式の翌日(平成21年4月27日・月曜日)一人で参拝しました。この時のことは未発表論文・合気神社探訪記にまとめました。すべてを掲載することは大変ですので一部引用しながら紹介を兼ね探訪記としてまとめてみました。
 前回訪問したときは昭和37年に始まる毎年恒例の例大祭(4月29日)の2日前のことで、皆さんその準備に追われる忙しいさなかの頃でしたが、稲垣?實(7段)先生にご丁重にご案内いただき恐縮いたしました。後日の連絡で例大祭は好天に恵まれ1400名を超える参拝者があり、最高の大祭日和となりましたとのことでした。もとは2万坪もあった広大な神社は開祖のいた頃は松やクヌギ林であったとのことでしたが、今はうっそうとした杉と楠に囲まれその深淵さを表す一方で内弟子によって絶えず清掃され清潔に保たれています。それでもすみずみというわけにはいかず、例大祭の直前には他道場から清掃の応援に駆けつけ、雑草一つない境内となっていました。そのときは季節柄、開祖のいた頃からあった真っ赤な大輪(5メ-トル四方)のキリシマツツジが神社の裏側に10数本咲き誇っていました。
  開祖はここを合気の産屋(うぶや)と称し、昭和16年開祖は妻はつ(敬称略)とともに東京から移住し、武農一如の生活を実践するかたわら合気神社の建立と野外道場からの発展としての合気修練道場を創建しようと考えられました。岩間での開祖はまず農家の納屋を譲り受け、ささやかな住居に改修し生活を始めました。その住居は8畳と6畳の土間があるきりという小屋でありました。この住居は現在の合気神社の所在地から愛宕山よりに200メ-トルばかりいった桐畑の低地にあったということでした。神社本殿は昭和19年秋(開祖61歳の頃)完成しました。真殿は昭和18年秋に完成との記載もあり、その関係は今のところよくわかりません。私が本殿と思っていたのは実は拝殿であり、この頃は本殿(奥の院)が完成し、写真でも見ることのできる拝殿は、昭和37年に完成したものということが新たにわかりました。開祖存命中のことであります。例大祭の時はここで合気道の演武がなされるようですが、普段はここで稽古することはないとのことでした。賽銭がよく盗まれ、時に賽銭箱ごと盗まれたようです。参拝当日、幸いにも新しい賽銭箱ができあがり一番最初に賽銭を入れることができました。
 本殿は二重の柵に囲まれ中に立ち入ることはできず、柵越しにしか見ることができません。合気神社建立は「合気道を武産(たけむす)し、守護してくださった神々へのお礼」に他ならず、開祖の敬神する43神の合祀であります。    

       
         拝殿              本殿(拝殿の後ろ)        うっそうとした境内
43神は立て札にも書いてありますが、天の村雲九鬼さむはら竜王をはじめとして、猿田彦大神、手力男命(たじからおみこと)、国津竜王、九頭竜大権現その他の神々のことであります。一般的に神社の参拝の仕方は2礼2拍手1拝ですが、ここでの参拝は2礼4拍手1拝で出雲大社と同じでした。道場では2礼2拍手1拝でした。神社を開放し中を見せていただき参拝させていただいた後、磯山先生に玉串料を差し上げました。その後、参拝者名簿に名前を書かせていただきました。
  神社正面左側には昭和17年(開祖59歳)に建立した石碑がありました。磯山先生に石碑に書かれてあった道歌を読んでもらいました。「美(うるわ)しきこの天地の御姿(みすがた)は 主(ぬし)のつくりし 一家なりけり」と。この道歌は開祖が作ったもので開祖のお気に入りの一つであったようです。若い頃は武道にちなんだ道歌が多かったようですが、年とともに精神的なことにふれた道歌に変化していったとのことでした。合気道も同様で、弟子が昨日の技と違うというと開祖は「馬鹿者!合気道は日進月じゃ。」と一喝されたとのことでした。」右側には青いビニ-ルシ-トがかけてありました。それは完成した開祖の銅像であり、平成21年12月7日に除幕式があるのでそれまでは誰にも見せられないということでした。銅像は開祖の身長(150センチ)の1.2倍の大きさがあるということが後でわかりました。

       
       開祖銅像               合気神社拝殿              石碑・道歌

7.合気道場について
  終戦直前の昭和20年(開祖62歳)の夏、それまでの野外道場に変わって建坪30坪ほどの本格的な合気修練道場が完成しました。当初は板の間で稽古も座り技しかやらなかったとのことでした。玄関のところにある控え室は4畳半位の板の間でしたが、当時は畳が敷いてあったようです。塩田剛三著『合気道人生』には6畳という記述があり、玄関は今は使っていませんが、正面に残っていますので、改築した可能性があります。昭和21年7月戦争終了後、復員帰国した宗家(塩田剛三先生31歳の頃。)は妻子(長女紀子5歳。翌年、疫痢のため死去する。)とともにこの部屋で寝起きし、およそ1ヶ月あまり内弟子として住み込み、その間、稽古と農耕生活に専念しました。食糧事情の悪さは想像を絶するものがありました。当時の稽古は午前中1回1時間、夜1時間というものでそれ以外はすべて野良仕事でした。宗家は都会育ちのためは鍬(クワ)や鎌(カマ)の扱いなど体験したことがなく、慣れない農耕生活に苦労されたようです。その頃は殆どが雑木林なので畑にするためには開墾が必要で、大木の根株を掘り起こすなど大変な重労働が求められました。北海道・白滝で開拓生活を体験していた開祖は田植えなど若い者を尻目に3倍くらいの速さで働いて見せたようです。道場は当初畳が6枚くらいしかなく、後は板の間でしたが、昭和31年頃より畳が敷かれ稽古ができるようになりました。当初は板の間の道場だったので痛くないよう小さく丸く転がるなど受け身の仕方を工夫したようです。そのうち畳になりましたが、あまりにも畳の痛みが早いので現在のように白布の羽二重(注1)を一枚一枚畳の上にかぶせるようになりました。照明も当時は電球が1個しかなく、薄暗い中で稽古をしていたようです。当時は中学生になってからでないと入門が許されないため磯山先生は12歳の頃、入門したようです。入門の動機は近くに何の習い事もなく、何もやることがなかったからとのことでした。時には開祖の稽古をより多く受けたいがために入門したてのものをやめさせようとするなど今思えば開祖に悪いことをしたと述懐しておられました。当時の磯山少年の開祖に対する熱い想いと稽古に対する貪欲なまでの執念が伝わってくるエピソ-ドです。雨の日も開祖と同様1日も休まず稽古し、開祖と思う存分稽古されたようです。人がいなかったので、開祖を投げて稽古ができたのは自分くらいなものということでした。ここには開祖生前からのお弟子さんが3人(磯山博、稲垣繁實、渡引好文の諸先生)も現存しており、開祖の息吹を今に伝えていることは感動しました。
  開祖の居室は道場の奥にあり、後で付け足してつくった部屋で、4畳半の囲炉裏付きの板の間の部屋と4畳半の畳み敷きの部屋があり、開祖と妻・はつ様はこの部屋で寝起きしていたということでした。世界の開祖にしては実に質素で狭いところにお住まいであったということでした。天井を見ると丸木を継ぎ足したことがわかりました。廊下を挟んで4畳半程度の土間がありそこに台所と風呂場があったようです。その後、さらに6畳の間を2間と4畳半の間が1間もうけられ、開祖もそこに移り寝起きするようになったとのことでした。保存のため普段は使わず、今は例大祭の時、おこしになった植芝守央三代目道主の寝室に使うぐらいとのことでした。4畳半の方は開祖の生前の遺品(本、生活用品など)がおいてありました。高さ、横1メ-トル、奥行き20センチ程度の小さな本棚には出口王仁三郎の書いた霊界物語など開祖の愛読書がぎっしりとつまっていました。将来はここ合気神社の地に記念館を作り展示したいとのことでした。この時代、ここで修業した弟子は前述の3人の諸先生の他、宗家(皇武館時代からの弟子)を始め、大澤喜三郎(皇武館時代からの弟子)、斉籐守弘、富木謙治(皇武館時代以前からの弟子)、阿部正、望月稔(皇武館時代以前からの弟子)、籐平光一(皇武館時代からの弟子)、奥村繁信(皇武館時代からの弟子)、多田宏、山口清吾、田中伊三郎、本間学等々の今はときめく堂々たる方々であります。砂泊兼平先生(後の合気道万生館館長砂泊?秀・皇武館時代からの弟子))は岩間にある大本教の道場で開祖の指導を受け、この道場では指導は受けていないとのことでした。開祖が高齢になるに従い、病身のため開祖の代稽古を務めたのは斉籐守弘先生や植芝吉祥丸2代目道主でした。また開祖に直接教えてもらう機会が多かったのは斉藤守弘先生以前に入門していた弟子でした。その中でも養神館合気道宗家塩田剛三先生は斉藤守弘先生の兄弟子に当たり、皇武館時代からの古参の高弟で、皇武館時代に開祖の合気の稽古相手を務め、合気を習得しました。この頃の宗家は木刀で素振り500本するなど武器術も相当鍛えられました。宗家が岩間を去るのと入れ替わりに斉籐守弘先生が入門し、23年間にわたり、武器術など開祖の稽古を直接受ける機会に恵まれました。いずれにしてもこれ等岩間の合気道場で修業した方々が、戦後合気道復活の原動力となったのは間違いのないところであります。時を経た今は次第に現存する方が少なくなってきています。

               合気道の稽古                                        合気会茨城支部道場      

8.合気道の稽古見学
  午前10時から11時まで磯山先生による指導がなされ私たちは玄関板の間から見学しました。15名のうち日本人は3名のみで後は外人の弟子ということでした。長い人で1年半くらいここに滞在するということでした。外人女性が1人、日本人(?)女性が2人いるように見受けられました。アメリカ、イギリス、ポ-ランド、オ-ストラリア、ミャンマ-等からきているとのことでした。合気道の国際性を身近に感じ取ることができました。宿舎は道場が当てられていて、特別の宿舎はありませんでした。
  磯山先生は膝が悪いため、立ち技の稽古が中心でした。最初に養神館合気道同様、基本動作の稽古がありました。相半身で綾(あや)に片手を持たせ体の変更をやり、その後、仕手、受け交互に両手持ちで側面入り身投げで投げ合いました。この動きから養神館でいう体の変更(一)の基本動作が創作されたのではないかと思いました。持たれたところを中心に入っていく指導に実践性を感じ取りました。この技の時、磯山先生が拳骨で受けの外人さんの坊主頭ををコツコツ殴られたのには驚きました。しばらくして理由がわかり納得しました。つまり受けが仕手の腕をしっかり捻らないと相手に反対の腕で殴られてしまうのでしっかり捻って握るようにということを身をもって教えておられたのです。このお弟子さんが何も反抗せず赤面をして受け入れていたことをみて師弟の人間関係の美しさを感じ取ることができました。同時に合気道の武道性を説かれていると思いました。
 次に相半身片手取り一教表と相半身片手取り一教裏を指導されました。養神館流に技の名称をつけると綾持ち一ヵ条抑え(一)と、綾持ち一ヵ条抑え(二)となります。さらに同じ持ち方で離脱法を使い、中段の小手返し、上段の小手返し、下段の小手返しを指導されました。これを書道に例えると楷書、行書、草書の稽古であるといわれました。また別の言い方で固体、液体、気体の稽古方法であるといわれました。小手返しの抑えについて頸椎の7番の上あたりで抑えていくと極まっていくといわれました。次にこの上・中・下の3段の離脱法とその入り方どれを使ってもいいから綾持ちの入り身投げで投げ合うよういわれ、仕手、受け交互に自由に技を掛け合う稽古がありました。最後は座って呼吸法の稽古をし、終わりました。技をかけるときは目線を、技をかける部分を見ないこと、一カ条の時、肘からあまり上の方をもたないことなど技について細かい注意がなされました。技の原点が、今なおざりにされているとの警鐘が鳴らされているようでした。基本動作に始まって終末動作の呼吸法に終わる稽古は養神館合気道の稽古方法との共通性を感じました。綾持ちの片手取り一カ条抑えや綾持ち片手取り小手返しなどは養神館では失伝しており、私は習ったことはありません。今、養神館では、綾持ちの技は綾持ち二カ条抑え(一)、(二)でしか残っておらず、改めて合気道の技の奥深さを感じとることができました。全体的に、技の有効性や実践性が感じ取られ、新鮮な思いで興味深く拝見させていただきました。帰ってから忘れないよう復習いたしました。さらに第10回国際合気道大会で実施された磯山宏師範講習会の内容について収録されたDVD(BABジャパン)を購入し、勉強させていただきました。開祖が遺した哲学と技法を磯山先生により合気道の原点として教わることができたように思いました。岩間の合気道といえば斉藤守弘先生の武器術に代表されていましたが、徒手合気道の中にも岩閒らしい合気道が今なお温存されているということは発見であり、感激であります。いつまでも人間国宝として開祖の合気道を伝えていただきたいものです。
 
9.昼食会
  合気道の見取り稽古が終わり、合気道場内の見学をさせていただき、合気神社を参拝させていただきました。その後食堂の前で野外の長い木のテ-ブルで昼食をいただきながら合気道の話を聞かせてていただきました。そのテ-ブルの位置から愛宕山が見えました。この山は開祖が生前、急な石段を弟子の故斉藤守弘先生に腰を後ろから押させて登り、稽古したところで開祖ゆかりの山という事でした。この光景は合気ニュ-ス発刊のDVD『植芝盛平と合気道』第6巻合気道の心編に岩閒道場の稽古風景と共に収録されています。この愛宕山は海抜305メ-トルあり、駅から西に3キロあり、山頂付近に駐車場があり、そこから徒歩でおよそ321もある石段を登ると日本火防三山の一つ愛宕神社(注2)があります。開祖のいた頃は鏡開きの時、朝は暗い内から合気神社から4キロくらいある道のりを歩いてふもとまで行き頂上近くまで登った後、さらにこの山を急な石段を経て山頂まで登り、愛宕神社を参拝するということでした。最初は木の根っこや岩に足をぶつけ擦り傷だらけだったが、慣れるにしたがって危ない場所が事前にわかり、避けて通ることができるようになったという懐かしい思い出話をしていただきました。時間がなかったので今回は登ることができませんでしたが、次回は是非、開祖ゆかりの愛宕山石段登りを体験したいと思います。

       
                                        磯山先生と歓談                              遠くに愛宕山
10.むすび
 磯山先生はこの日、他の道場の稽古予定があったようですが急遽予定を変更し、私どものためにおつきあいいただきました。また道場の皆様方には昼食準備など何かとお世話になりました。HPを借りて厚く御礼いたします。おかげさまで開祖ゆかりの合気神社を参拝できた上、道場及び合気道を見学させていただき、会員一同、合気道の奥深さと開祖の人となりを身近に知ることができ感激し、感謝いたしております。今後より多くの方々に合気の産屋としての合気神社の存在とそれを守る方々を紹介し、開祖の精神と技の原点を学んでいきたいと念じております。機会があれば、再度、訪問いたしますので、その節にはよろしくお願いいたします。

11.備考
(注1)羽二重・・・羽二重(はぶたえ、: habutae silk)は、平織りと呼ばれる経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交互に交差させる織り方で織られた織物の一種。絹を用いた場合は光絹(こうきぬ)とも呼ばれる。通常の平織りが緯糸と同じ太さの経糸1本で織るのに対し、羽二重は経糸を細い2本にして織るため、やわらかく軽く光沢のあるとなる。白く風合いがとてもよいことから、和服の裏地として最高級であり、礼装にも用いられる。日本を代表する絹織物であり『のよさは羽二重に始まり羽二重に終わる』といわれる。
(注2)愛宕神社
①愛宕神社由来記・・・愛宕神社は、日本火防三山の一たる、常陸国岩間町泉愛宕山頂に鎮座し、御祭神は伊邪丹大神、火具土命、火結命、水波女命埴山比売命の五柱の大神を祀る。人皇五十一代平城天皇大同元年八月二十三日の創建にして歴代皇室の尊崇殊の外厚く徳川幕府に御朱印地三石を献せられ、宍戸四郎氏朝以来代々供田料を献納また土浦の藩主土屋但馬守数直は本社を特に祈願所と定め毎年供進使を遣わして幣帛料を献せらるる等、近隣近国の藩主の崇敬厚く特に火防の主神として神威赫々霊驗顕著なるを以て県内は勿論近県よりの、参詣する崇敬者夥しく四季絶える事がありません。
愛宕神社は、桜で有名な愛宕山(標高305m)山頂にあり、日本三大火防神社の一つとして知られています。又、裏手にも多くの神社があり、特に飯綱神社の奇祭「悪態祭」が有名です。
②御案内・・・此の石段を登り詰めた処に愛宕神社の奥社飯綱神社即ち夷針神社鎮座し、其の御祭神は手力雄命又奥の御本殿は菊花紋をつけ精銅造の六角堂があり台座は自然石で造られ亀甲の形は美事な芸術的魅力を感じます。西に松尾神社又芭蕉の句碑あり句文の一葉の自生も見られ、東に水の神、龍神社が祀られ巴川の水元から泉地名の紀元と思われる。愛宕山を守護し神徳の発揚に寄与した十三人の天狗の祠があり関東三大奇祭として悪態祭は広く知られる。      -境内案内板より-