三島おさむの県政つうしん REPORT SHIMANE TOP
三島おさむについて
自己紹介主張
職務について
議会質問議会ではその他の活動
趣味と情報について
ブログ趣味と写真三島情報
関連項目
リンクメルマガ
HOME/トップページ
トップページ > 三島おさむについて > 主張 > 歴史認識と靖国問題

歴史認識と靖国問題

[2006.5/7]
【リベラル議員】
2月議会の質問戦で驚いたことがありました。
最もリベラルと思っていたある議員が、首相の靖国参拝について、心情的にとてもよく理解できると発言したのです。
国民の意識はここまで風化しているのかと言うことと、今のふわっとした国民意識を象徴しているように感じました。
また、2月初旬、委員会の調査で石見に行った際、歴史認識と靖国の論議となり、夜中の2時ごろまで口角泡を飛ばすこととなりました。靖国参拝反対の私の相手は、論客として名うての県議1名と教育委員会の幹部1名、議会事務局職員2名の容認派です。
私の主要な論点は、北東アジア外交戦略とわが国の歴史認識・歴史総括のありようでしたが、残念ながら旗色が悪かったと言わざるを得ません。

【歴史と靖国】
今日、高橋哲哉著の「靖国問題」を読み終えましたが、その伏線はこの夜の論争です。
わが国の明治期以来の歴史を、深く学ぶことや考えることがなかったという認識はありましたが、この夜の論争で再確認することになり、保阪正康著の「あの戦争は何だったのか〜大人のための歴史教科書」を買い求めて読み、そして、この「靖国問題」に向かったのです。
その間、「喪失の国、日本」を読む中で、極東国際軍事裁判でのインド人・パル判事が全員無罪の意見書を提出したことについて、一部の(?)日本人は、彼の思いを全く理解せず事実だけを都合よく解釈している、という説得力ある著者の意見を目にしました。
また、野中広務氏のあっという間に終わった2時間の講演会では、天皇陛下の太平洋戦争への思いと極東アジア外交に関する見解を聞くことができました。根っこでは違うと思うのですが、共感できるものでした。

戦争からは、愚かな指導者に率いられた国民は不幸であること、戦争責任を正確に認識する必要があることを、「靖国問題」からは、古今東西「戦う国家とは祀る国家である」ことなどを学びました。そして、天皇制と靖国の構造は似ていること、問題は政治であることも。
それにしても、教育委員会の幹部でありながら、その歴史認識のレベルたるや驚きです。わが党の責任は重いです。


ここまではブログに書きました。以下、読後感など。

【2冊の本】
まず、両書についてですが、「あの戦争は何だったのか〜大人のための歴史教科書」は、多くの資料や証言に基づき、単なる善悪論ではなく、なぜ戦争を始めなければならなかったのか、なぜ無謀な戦いを続けることとなったのか等、その構造をわかりやすく解き明かしてありました。
「靖国問題」は、多くの資料を考察し、鋭利に靖国問題の本質を論証した一書です。しかし、そこまで求めるのは酷かもしれませんが、一点、国際社会の平和秩序維持と日本の役割を考えた時、理想と現実をどう埋めるかと言う点で、評論はある意味で気楽だと思わざるを得ませんでした。

【A級戦犯】
「日本人は戦争を知ることから逃げてきた」。その通りではないでしょうか。
歴史教科諸問題や靖国参拝で、私の目にも過剰とも思える近隣諸国の反応に対して、日本の国民はどのような反応を示してきたでしょうか。戦没者への情緒的な思いや、強い反発に対する嫌悪感からだけで反応してはいないでしょうか。
A級戦犯、死んでしまえば仏さま。どうして一緒に合祀して悪いのか。
たまたま、東條英機以下28名を連合国がA級戦犯と認定しましたが、では、「神格化」したはずの天皇の思いを慮ることもなく(?)無謀な戦争に日本を引きこみ、何の戦略も描くことなく、日本人だけでも330万人、日本軍のために2000万人を超える尊い犠牲者を生み出した指導者達を、一体わが国はどう総括したのか。否定しようもない植民地主義をどう総括しているのか。
日本国民からしても、少なくとも、A級戦犯は戦争責任を負うべき人たちではないでしょうか。

【戦う国家とは祀る国家】
「靖国問題」では、靖国の問題をA級戦犯の合祀に矮小化すべきではないとしています。
その本質は、「戦う国家とは祀る国家である」と最初に書きましたが、戦没者の英霊化を最大限に推し進め、新たな戦争への動員を巧みに推し進めるための装置であると喝破しています。
その装置はギリシャ時代以来、ヨーロッパに、アメリカに、お隣韓国にも、中国にもあると。

【感情の錬金術】
筆者は、現在の靖国信仰成立の立役者として、福沢諭吉の主宰していた「時事新報」に掲載された論説「戦死者の大祭典を挙行すべし」(1895.11.14)をあげています。
そこには、日清戦争、台湾戦争の犠牲となった遺族に対し、「戦場に斃るるの幸福を感ぜしめざる可からず」とし、「大元帥閣下自ら祭主と為らせ給ひて非常の祭典を挙げ賜わんか」すれば、「一般国民は万一事あらば君国の為に死せんことを糞(こいねが)ふなる可し」と説かれ、この1ヵ月後、明治天皇が祭主となり、全国の遺族代表が靖国に招かれ、戦死者の顕彰が盛大に行われ、現在の靖国信仰の形が整ったとしています。
悲しみから喜びへ、不幸から幸福へ、遺族の感情を錬金術のように変えてしまう仕掛けができたというのです。国民を国家の道具としてうまく利用するための装置、それが靖国の本質だと筆者はさまざまな角度から論証しています。
そして、無宗教の国立追悼施設ができたとしても同様の危惧があると。それは、政治次第だと。

【重い気持ち】
読み終わって、大変重い気持ちになっています。
この2冊の論証は、相当普遍妥当性があると思っています。しかし、高低浅深はあるでしょうが、このような見方をしたくない人たちが大勢います。その壁は、厚く、高いものです。
愚かな指導者を持った国民は不幸です。
一方、現実の中で妥協をしながら進んでいくのが政治です。一歩でも前に進めばよしとするのか。とても重い責任を感じています。
 
前のページ ページのトップ