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トップページ > 趣味と情報について > 三島情報 >「死ぬ瞬間〜死とその過程について」から抜粋したメモ

キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間〜死とその過程について」から抜粋したメモ

[2009.3/28]
 キューブラー・ロスの「死ぬ瞬間〜死とその過程について」を読み、ラインを引いたところから、更に抜粋しました。僕の備忘録メモです。

 死はこれまで人間にとってつねに忌むべきことであり、今後もつねにそうでありつづけるだろう。それは、私たちは無意識のうちに「自分にかぎって死ぬことは絶対にありえない」という基本認識をもっているからだ。
 自然現象や老齢のために死ぬなんて考えられない。そのため、死は、それ自体が報いや罰をまねくような悪い行い、恐ろしい出来事を連想させる。

 そもそも点滴が用いられるのは、大勢の人の手を煩わさず、個別の世話をしなくても身体に必要なものを与えることができるという単純な理由からにすぎない。
 死もまた人生の一部なのだ。

 科学や人間についての知識を得たおかげで、人が自分の家で安らかに尊厳をもって死ぬことができる時代は過去のものとなった。
 科学が発達すればするほど、私たちはますます死の現実を恐れ、認めようとしなくなる。

 今日、死の過程がいろいろな意味で以前よりつらいものになった。死の過程はより孤独に、より機械的に、より非人間的になった。ときには医師ですら死の瞬間がいつなのか決めかねる場合もある。
 死はますます孤独で非個人的なものになりつつある。それは患者が、慣れ親しんだわが家から運び出され、緊急救命室に急送されるからだ。

 最新の科学技術の成果だけでなく、人間対人間の関係にも同じように重きをおいて教育すれば、それは真の進歩といえようが、そうしたことをおろそかにして最新知識だけを教えていたら、とうてい進歩は望めないだろう。

 もし国民全体・社会全体が死を恐れ、死を認めないならば、破壊的な自衛手段に訴えざるをえない。戦争、暴動、増加するいっぽうの殺人、その他の犯罪は、私たちが受容と尊厳をもって死を直視することができなくなった証拠かもしれない。分自身の死について考え、むやみに恐れることなく、悲しいが避けることのできないこの出来事を直視する術を学ばねばならないだろう。

 未来社会というと、ますます多くの人びとが「生かされている」社会が思い浮かぶ。

 科学技術が誤用されて破壊的なものが増える傾向に歯止めをかけ、人間性よりも延命に重点が置かれるのを阻止し、科学技術の進歩に合わせて個人どうしの触れ合いの時間が減るのを食い止め、反対にそういう時間をもっと増やせば、そのとき、私たちの社会は本当の意味で偉大な社会といえるようになるだろう。

 若い医師は延命の方法は学んだが、「命」の定義についてはほとんど教えられず、議論もしたことがない。

 患者を機械に縛って植物状態にしておくのではなく、彼が人間らしく生きる手助けをすることによって、人間らしく死ぬ手助けができるということである。

 自分自身が死を否認したいと考えている医師は、患者も死を否認したがっていると思い込んでおり、話し合いをためらわない医師は、患者もこの間題を直視し認めようとしていると考える。

 死んでいく患者の問題はいずれ終結するが、家族の問題はその後も続いていく。問題の多くは患者が生きている間に話し合えば減らすことができる。

 患者が自分の悲しみを乗り越え、人間は穏やかな気持ちで死ねるということを身をもって示すことができれば、家族はその強さを思い出して、冷静に悲しみに耐えられるようになる。
 罪悪感は死の道連れとしては最もつらいものだろう。

 患者は伝えることができなくても、まわりで起こっていることは十分理解している。たとえさまざまな刺激に対して反応がないように見えても、安易にいわゆる植物人間だとみなしてはならない。

 家族が自分の感情を患者と分かち合えれば、彼らは別れが来るという現実をしだいに直視し、患者とともにその現実を受け入れるようになるだろう。

 勇気を出して葛藤を直視しょうとしないのは、自分自身のせいであることを自覚した。さらに、患者と深くかかわりたくないことを正当化しようとして、聖書を引用したり、家族や医師の指示を口実にしていたことに気づいた。

 跳ね返すほど固い土を耕し、苗を植えるにも細心の注意を払えばこそ、手にする果実はよけいに美味しいのだ。

関心のある人たちが自分を注目していることに、はっと気づくのだ。この注目こそが、末期患者を力づけるのである。

 心遣いを態度で示せば、それがいかに小さな行為であろうと、何と多くの大切なことを伝えうることか。
 現代のように、不安、水爆、急速な発展、何もかもが「大量」の時代にあっては、小さな個人的な贈り物がふたたび意味を持ってくるかもしれない。

 「私たち」が否認を用いないということ、すなわち、死や死の過程という言葉を抵抗なく使うということが、多くの患者たちにとっては何より歓迎すべきコミュニケーションなのだろう。
 病院スタッフがきちんと事実を教えてくれなくともさほど気にはしなかったが、重要な決定がなされる際、子どものような扱いを受けたり、自分の意思が尊重されなかったりすると腹が立ったという。
 きちんと告知された患者では、ほとんどの人が告知してくれてよかったと思っていた。

 苦労の多い人生やつらい仕事、重労働に耐えてきた人、子どもを育て上げ、自分の仕事に満足している人は、野心的にまわりの人々を支配し、物質的財産をため、多くの社会的関係はあっても人生の最後に必要となる有意義な対人関係はほとんどない人にくらべ、尊厳のうちに穏やかな死を迎えるのが容易である。

 死は死にいたる過程が終わる瞬間にすぎない、と言ったのはモンテーニュではなかったか。患者にとって死そのものは問題ではなく、死ぬことを恐れるのは、それに伴う絶望感や無力感、孤独感のためであるということがわかった。

 末期患者には非常に特別な要求がある。それは、私たちが座って耳を傾け、それが何なのかをはっきりさせれば満たされる。おそらくもっとも重要なのは、こちらにはいつでも患者の不安を聞く用意があると伝えることだろう。

 愛情や憎しみという感情は人間ならだれでもいだくものなのだから高い代償を払う必要はない、とちょっと説明して安心させてやると、患者の身体症状の多くはやわらぐのである。
 理解ある人が座って耳を傾ければそれで十分である。

 「言葉をこえる沈黙」 の中で臨死患者を看取るだけの強さと愛情をもった人は、死の瞬間とは恐ろしいものでも苦痛に満ちたものでもなく、身体機能の穏やかな停止であることがわかるだろう。人間の穏やかな死は、流れ星を思わせる。広大な空に瞬く百万もの光の中のひとつが、一瞬明るく輝いたかと思うと無限の夜空に消えていく。臨死患者のセラピストになることを経験すると、人類という大きな海の中でも一人ひとりが唯一無二の存在であることがわかる。そしてその存在は有限であること、つまり寿命には限りがあることを改めて認識させられるのだ。七十歳を過ぎるまで生きられる人は多くないが、ほとんどの人はその短い時間の中でかけがえのない人生を送り、人類の歴史という織物に自分の人生を織り込んでいくのである。
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