三代 井上九郎右衛門正永


 正永は元鷹匠の家であったが満英について直信流柔道の奥義を極めたので宝永三
年八月士分に取立てられ柔道の師役を仰せつけられた。更に正徳元年四月二十石五
人扶持の士列に取立てられ、享保九年三月まで十九年間柔道教育を担当した人であ
る。彼は柔道に極めて熱心であって他人の百倍の努力をなした結果実に業の上では右
に出る者はなかった。このことがつまり士列にまで栄進した原因となったであろう。師は
享保九年三月依願師役御免となった。この人の伝記の中に次のような話がある。

 殿中に強力無双で知られていた茶坊主がいた。ある日正永が殿の御前に出仕して頭
を下げていた時、殿は一つの興に茶坊主に命じて、「坊主よ、彼のあとからこっそりと行
き抱き締めて見よ」と命じた。彼は何の思慮もなく「ハイ」と返事をして正永の後に廻りグ
ーッと力を入れて彼を抱き締めた。正永はハッと思ったが殿の御前である事を憚り、な
すがままにまかせていたが、何分にも強力無比の称のある彼が渾身の力を籠めての
締めである為正永も苦しくて顔色に現れるようになった。殿はこの様子を見て、「モウヨ
シ」とお声掛りがあって茶坊主は彼を締める事を止めた。殿は正永に向かって、「柔道
も強力なものには及ばぬか」とのお言葉があった。此の様子を憤って見ていた御側役を
勤める桜井武太夫という寺田満英の直弟子であった老人が、正永の返答に先だって
言うには「柔道の強力に対する道は色々ありますが、唯今正永師匠が相手にされなか
ったのは唯御前を憚ってのことであります。今一度御命じになれば如何なる応変もなさ
れようが、それよりも殿、先ずそれがしに仰せつけられますよう」と申し出た処、殿もそ
れは更に一興と再び茶坊主に命じて桜井武太夫を抱き締めさせた。力はあっても知恵
の足らざる茶坊主、なにこの老骨がと侮りつつ前の如く後より抱き締めようとした刹
那、武太夫は後に手を伸して坊主の後襟を取るや否や。「エイッ」と一声直信流の投の
手極まって坊主の体は前に飛ばされ、広間の障子を突き破り、勢余って庭に転がり落
ち気絶したということである。

正永は軽輩から士列に取立てられたばかりにて、禄も僅か二十石五人扶持という身分
なので、殿の御前という事は極めて大切な場所であるから、後になって軽挙妄動等と
非難されてはならないという深い思慮とあくまで斬道精神でもって一貫したのである。こ
れに比して桜井武太夫になると殿の御側に侍る重役格であるから少々の我儘は許さ
れると思い、断然積極的に出て柔道のために面目を立てたのである。


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