幼少の頃より父正永について直信流柔道を修行したが、享保五庚子年三月十一
日、江戸にて諸流の奥義を極め、賞与として銀五枚被下、のち郷里に皈り正永隠居
により享保九甲辰年四月九日父の跡目相続をなし、二十石五人扶持として柔道の師
役となり、大番頭に組入した。この人は出藍の誉高く流祖寺田満英以来の達人とな
り、諸人は直信流柔道中興の祖と仰いだ程の人であった。ある時家にいて庭先で気合
の練習をしていたら、門前を歌を歌って通った人が急に発声出来なくなったといわれ
る位気合の名人であった。また鷺等に気合いをかけるとその為に鷺は体がすくんで動
けなくなったという程斬道の奥義に達していたということである。
延享二乙丑年八月二十八日家業奨励につき御飯料二十俵頂き、堂三丙年八月五
日嗣子なきにより塚本理左衛門の弟を養子におおせつけられたが、彼は父に先だっ
て死んだ。寛延三庚午年三月二十四日江戸勤番となり、堂十一月十日落合平右衛門
の二男を再養子におおせつけられ、同四辛末年九月五日七十石となり、宝暦九己卯
年十一月二十八日百石御使番役となった。これは正順が正直を根本として奮励努力
したためであり、明和七庚寅年三月晦日柔術御覧の折、格別鍛錬及老年迄業達者
につき二百五十石となり、安永六丁酉年六月朔日数年御師役相勤老年まで精勤に
つき二十石増加となり同八己亥年四月五日隠居を許され、料として二十石賜った。実
に五十六年の間一藩の師範として又中興の祖として精励した。翌九庚子年三月二十
日八十六才の高齢をもって松江に歿した。 |