藩主六代松平宗衍公はそのお供回りに大男を集められた。お供方はもち論、お駕籠
の者達まで皆大男であった。当時の大名達は一種の見栄から特に大きな男を供回りに
集めて威勢を張ったものである。これらの大男は諸国の渡り者が多く、藩士が御在国の
時には外中原宮之町の御駕籠部屋にごろごろしていて暇にまかせて良からぬ手遊や町
に出て悪戯をしていた。
ある夏の夜のこと彼等は土橋の上で涼みながら通りかかりの女に悪いふざけをした
り、男に喧嘩を吹きかけたりして、町の人達を困らせていた。その頃藩士の中に直信流
柔道の達人で坪坂甚右衛門という人がいた。この人は直信流四代井上治部太夫正順の
高弟で(富永時●(源の下に心)、横山吉郎太夫と共に)あった。この人がある日の夕方
中原土橋の上を通りかかろうとすると、例によって男達が両方から足を伸ばして往来を
塞いで坪坂の通行を妨げた。「無礼者奴、道を開け」というと「何を吐かす小僧奴、俺達は
殿様のお駕籠の者だぞ。ぐずぐずいうならひと泡吹かせようか」と坪坂を小男と侮って一
斉につかみ掛かって来た。彼はその大男の一人を肩車にのせてエイッと川の中へ投げ
込んだ。続いてあとに残った四、五人も見る見るその場に叩き伏せたので、残るものは
これは手強いと見てたちまちくもの子を散らすように逃げ去ってしまった。一人の逃げおく
れた男をつかまえて坪坂は「毎日毎夜往来の人達を苦しめるとは言語に絶した不届者
奴、以後二度とこんなことをすると捨てて置かんぞ」と厳しく叱った。
その後彼等は江戸に皈ってから口々に「松江の武士は体は小さいが馬鹿に強いのがい
る」と評判したので街道筋や江戸の乱暴ざたが断えるようになったということである。
−雲陽秘事記−
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