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養神館合気道
                   
白滝村の開祖 
 (1)開祖と白滝村の概況
 (2)白滝郷土館
 (3)白滝柔剣道場

 (4)武田惣角の碑
 (5)植芝盛平の碑 
 (6)上白滝神社
 (7)あとがき

合気道開祖・植芝盛平ゆかりの地・武田惣角ゆかりの地探訪記
      
(6)上白滝神社


  この上白滝神社は開祖ゆかりの神社で建立の際に開祖が世話役を務め神社の中の掲示板に改築役員寄付世話係と墨守された名前が残されています(上の写真参照のこと)。しかも寄付世話係の先頭に名前が書かれています。開祖以外の方には地区名が記されています。@二股−中本久吉、A旧白滝−青山右近、B支湧別−佐藤平一郎、C同−三石音次郎、D同−佐々木平吉、E奥白滝−小野寺寅治、F同−村形、G支湧別−直木為吉、H奥白滝−及川新太郎、I支湧別三根−木村捨次郎以上10名の方の名前が記されています。ここには白滝と上白滝の地区名がありません。ということは開祖は寄付世話係の総代であるので地区名はここにあげなかったが、白滝と上白滝は開祖が責任を持って世話係を行ったとも解せられます。開祖は氏子総代建築委員ではないが、白滝と上白滝が最も関係の深かった地域であることを裏付けているのではないでしょうか。ですから上白滝に本籍はあったが住居はなかったということはいえないということではないでしょうか。
  これ以外に開祖が応分の寄付をしたことがこの神社内に記してあるという方もいますが、調べてもらったところでは開祖の名前は他には見あたらなかったということです。この中は6畳一間程度の大きさしかありません。開祖の名前が残っているということは今となっては開祖が白滝に残した唯一の足跡ともいえます.。この神社は大正8年3月に起工し、同年9月19日に落成式を行ったと掲示板に書いてあります。建立は同年5月と白滝村史には記載されているとのことです。
  しかしながらこれには前段の経緯があります。合気会2代目道主植芝吉祥丸氏の道主の著作『植芝盛平伝』(昭和52年第1刷)によるとその90頁〜91頁にかけて「上白滝神社−。明治26年、滝の上8号駅逓所設置により駅逓取り扱い人とし中沢沢治入所するやまもなく、来住民及び往来人の安寧を願って隣接の滝の上橋付近に天照大御神を勧請し、神籬(ひもろぎ)を建てたのが初めてである。明治45年紀州団体入地するや、植芝盛平団長持参の守護神、軸物の建速須佐之男命生(たけはやすさのおのみこと)を合祀。大正4年6月のある日、時の神官川村照喜、霊夢ありてさっそく白滝山中に霊所を設け祭神し、同年11月御大典記念として祠(ほこら)を建て衆人の希望もあって倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)をも合祀し、以上の三神を祭祀した」と何らかの資料から抜粋してあります。これが正しければ上白滝神社の開基は明治26年とすることもできますが、この時はあくまでも神籬(ひもろぎ)であり、神社ではありません。しかし祠となると神社と考えても良いかと思います。開祖のいた頃から上白滝神社の前身として祠が今の場所に存在していました。
  残念ながらこの祠は大正6年の火災で焼失したと思われます。そのためなのか、現在の上白滝神社には建速須佐之男命(タテハヤスサノオノミコト)の掛け軸はみあたりません。神棚の中には天照座白王大御神と書かれてあるだけです。上白滝には開祖より数年早く入植された方もいたし、遠軽側の旧白滝には開祖より18年も前に入植した方がいたようです。その間にある白滝だけが未開の地であったようです。開祖の入植した頃は白滝駅付近は全く開拓されていませんので、かえって駅逓(えきていという休憩所)のある上白滝の方が開けていたのです。ですから開祖がこの土地に最初の住まいを設け、本籍地を最初にここと定めていても不思議ではないのです。

大鳥居の手前にはJR石北線
                       上白滝神社・社(やしろ)
                      
 この周辺の地区(白滝、支湧別、上白滝、奥白滝)にはこの上白滝神社建立を含め、開祖のいた大正2年から8年の間に10棟もの神社(白滝神社・神支湧別神社・御嶽神社・高台神社・下白滝水神社・旧白滝神社・千蔵華爾(ちとかに)神社・支湧別神社・北支湧別神社・上白滝神社)が次々と建立されました。中でも大正2年(1913年・20歳)12月に建立した白滝神社は白滝入植以後、最初に建立されたもので二股市街の有志が中心となり白滝原野1868番地内に二股神社(現白滝神社)を建立しました。二股市街は開祖が私有地を提供しつくった商店街であり、開祖との関わりが深いところです。上湧別村史(大正9年4月4日発刊)の二股市街について次のような記述が残っています。「大正3年に移り植芝氏は特に自己所有地を相して市街地宅約70戸分を定め希望者に対し無償分譲を行いたり、これすなわち隆盛なる二股市街の起源にして・・・」とあります。
  この事実をもってしても、開祖が当地区に建立された@二股神社(後の白滝神社)建立の際に何がしかの関与をしていることはうかがえます。その上、郷里、和歌山県田辺市において世界的博物学者・南方熊楠(みなみかたくまぐす・1867〜1941)に協力し、政府の神社合祀策(地方中小神社の統合整理・1村1神社)に先頭を切って反対運動したこともある開祖が、これら身近な地域の神社建立に深い関心を持ち、率先してかかわったことは容易に想像できます。もしかしたら、白滝神社の建立に際して開祖は自己の所有地を提供したのかもしれません。土地の人の中にもそのようにいう人がいるようです。残念なことにこの白滝神社は大正6年に白滝村全土の大火災に見舞われ、上支湧別神社・支湧別神社と共に消失しました。
 Aその後、別の場所に3.5坪の神殿を再建(東区白滝原野1605番地)し、これを機会に白滝神社と呼称を変更しました。この火災により開祖が関与した記録も同時に消失し、現在では確認の手だてがないようです。当初は二股商店街に近い中央区につくられていました。
 Bその後、この白滝神社は町並みが西区に移るのにおよんで昭和35年7月、西区旭台に30坪の神殿として移転新築をしています。ところが昭和43年6月3日社務所より出火し全焼しました。
 C昭和44年9月、19.5坪の現在の神殿が白滝小学校の近くの西区に建立されました。現在の神社は@ABの建立を経て、Cは4棟目ということになります。この白滝神社も開祖ゆかりの神社といって良いのかもしれません。拝んでこなかったのはかえすがえすも残念です。現在のCのこの広さで見る限り、中で武術の稽古ができそうです。しかし創立当初(@の二股神社)は7畳程度の広さしかありませんので、集団方式の今風の合気道の稽古はできそうにありません。でも稽古のやり方によっては可能であったかと思います。ただし、ここで稽古していたという確証はありません。
  大正8年12月(1919年)(「チチキトク」の報を受け取るとすぐに北海道を発ち、再び戻らなかったと言われます。開祖は父・与六の死を契機として大正9年4月(1920年)、一家を挙げて京都府の綾部に移住し、大本教に入信することになり、白滝を静かに去ります。なお上白滝神社は平成18〜19年の保存運動により、地元有志と全国の合気道関係者の寄付により平成18年5月(2006年)修復されました。無から有を生じせしめる開拓魂や合気道魂をはぐくんできた開祖ゆかりの貴重な神社といえます。